論点:
認識論的な意味で誠実になるならば、わたしは自分を取り巻く隣人たちについて、偏見を持っていないと断言するわけにはゆかないであろう。
わたしたちは原理的に言って、他者たちの考えていること、感じていることをそのままの形で知ることはできません(他者の未知性、あるいは他者の他者性)。
それにも関わらず、わたしたちはそれぞれの隣人について、「この人はかくかくの人だ」という判断を下しています。この判断はその人の言動や身振り、行動や評判、そして、判断するわたし自身のこれまでの経験などに即して下されるものです。
しかし、この判断が本当に正しいものであるかどうかを決定するのは、他者が他者である限りにおいて必然的に付随する未知性を考慮に入れるなら、極めて困難であると言わざるをえません。仮に、自分の下した判断が間違ったものではないとしても、その判断が相手のすべてを言い当てているわけではないであろうことは、言うまでもありません。
にも関わらず、私たちは自分自身の隣人たちに対して、日々さまざまなレッテルを張り続けています。このことには、日常生活を送ってゆくためには仕方がないという側面もあることは否定できないとはいえ、これらのレッテルの中にはいわゆる「不当な偏見」も数多く含まれているのではないかという点については、ことあるたびに自問しておいた方がよいのではあるまいか。
人間についてある程度のところまで学んだ人は皆、「わたしは知っている」と思い込むのがどれほど危険なことかを熟知しています。
「この人のことは、もう掴んだ。」「あの人のことは、もう分かってしまった。」
こうした言葉は多くの場合、それを言った人の賢さを示すというよりも、むしろその人の傲慢と暗愚を示す可能性が高いと言えるのかもしれません。無知とは、知らないことにあるのではなく(そのことを言うのであれば、「知っている人間」など一人もいない)、知らないはずのことを知っていると思い込む高ぶりのうちに存在するのではないだろうか。
彼が言いたいのは、彼自身のうちに無知の知が熟し、隣人の言葉を聞くという、一見簡単にも見える行為の困難さを本当の意味で納得できるようになるためには、それだけの時間がかかったということなのでしょう。ここには、人の心理を見抜く術を教えようと大言壮語する現代のソフィストたちの「知恵」よりも、ずっと深いものがあることは確かです。