イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学は、面白いというだけでいいのか

 
 論点:
 前途有望な若者に哲学の道を勧めることが正当であると言うことができるためには、哲学には将来の不安定さを補って余りあるだけの、何らかの善さがあるのでなければならない。
 
 
 繰り返しになるけど、いくら勉強してもお金は稼げない可能性が高いわけですよ。しかし、たとえそうだとしても、それでも我々には哲学しかないわけである。
 
 
 それはなぜか。まず思いつくのは、哲学はとにかく楽しいからだという答えである。哲学は面白い。いや、面白くないっていう人には面白くないのかもしんないけど、考えるのが好きっていう人には、これ以上に面白いことなんてないというくらいに面白いのである。
 
 
 しかしだ。仮に、哲学は面白いということには間違いがないとしても、ここで、次のような疑問が浮かび上がってこざるをえない。
 
 
 問い:
 哲学が、ただ面白いというだけで、実は貴重な人生の時間を浪費させてしまうだけの凶悪トラップであるとしたらどうか?
 
 
 いわば、サタンが人間に人生の時間を無駄遣いさせようとして、哲学という罠をしかけたというわけである。
 
 
 仮にそうだとすれば、たとえば僕なんかはその罠にはまってしまったかわいそうな人の典型ということになるだろう。「理屈をこねまわすだけのアレな人」というのは哲学者に対する典型的なイメージの一つでもあるわけで、哲学がそういう意味での知的ゲームにすぎないとしたら、それにはまってしまった人はマジで悲惨以外の何物でもなかろうね……。
 
 
 
哲学 サタン プロ ファイトマネー
 
 
 
 なぜならばだ。たとえば、囲碁とか将棋とかなら、めっちゃ上手くなればプロになれる可能性もある。プロのゲーマーとかも、結構な額の金を稼いでいると聞く。言うまでもなく、そこまでいくのはマジで大変なのではあろうが。
 
 
 しかしだ。哲学には、プロ制度とかは基本的にはないわけですよ(大学教授がいるじゃんというツッコミについては、とりあえず置かれたい)。論争とかしてもどっちが勝ってるのかなんてよくわかんないし、ファイトマネーも出ない。気がついてみると、またしても話がお金の方に戻ってきてるなくそう。
 
 
 とにかくだ、さっきの想定が仮に正しいとして、僕も哲学という蜃気楼にいっぱい食わされたのだとすれば、もう時すでに遅しとしか言いようがないのである。
 
 
 面白かったならそれでいいじゃんという意見もあるかもしれぬ。いや、確かに面白かった。面白かったし、まあ今も面白くないわけじゃないからそれでいいんだけどさ、人生面白いだけでいいのかという思いはやはり抑えがたいものがある。それ言いはじめちゃったら、人生面白ければそれでいいんじゃねとか思ってた若き日の僕があまりにも愚かだったね完ということにもなりかねないのだが、それだとあまりにもやりきれないから、やはりもう少し別の方向で考えてみたいところなのである……。