イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

こうしていたくないわけでもない

 
 問題提起:
 哲学はまずもって、他人のためではなく、おのれのためにするものなのではあるまいか。
 
 
 孔子先生の言う通りであるよ。結局、自分の修行のためなのよ。他の人に喜ばれるためではないんよ。
 
 
 しかしそれでも、われわれは時々哲学をやってて空しいように感じる時がある。はたして自分は一体、何をやってるのだろうか。本読んで、考え続けて、それで何にもならないってどういうこと。冷静に考えたら、マジで愚かとしか言いようがないんじゃないか僕よ、まあ、どっちにしろもうどうしようもないんだけどさ、とかね。
 
 
 しかし僕はここで、孔子先生の魂の言葉を思い出さずにはいられないのである。
 
 
 孔子先生の言葉:
 世の人々から知られなくとも恨むことがない、それが君子というものではないかね。
 
 
 その通りです先生、としか言いようがないのである。人知らずして恨みず、また君子ならずや。君子だよ。われわれは、君子を目指さなくちゃいかんよ。
 
 
 多分人間には、名誉というものを完全に諦めきることはできぬであろう。んで、名誉を求めることにも、ある程度までは正当性がないというわけでもない。だが、究極のところはやはり「人知らずして恨みず」でなければならん。煩悩はまだまだ消えない(はたして、消える日があるのかはギモンである)とはいえ、ここ数年になってようやく、少しずつは心からそう思えるようになってきた気がしなくもない……。
 
 
 
 哲学 孔子 いいね 承認 SNS
 
 
 
 大事なのは、人間って意外と見てるところは見てるからごまかしがきかんということである。
 
 
 隠してても、売れたいとか知られたいとかって伝わってしまうものなのだ。かくいう僕とて、今だって承認されたいし、いつもよりも沢山「いいね」とか付いたらやっぱり嬉しく思うのは止められないわけですよ。
 
 
 だが、僕は気づいた。「いいね」が付くか付かないかなんて気にしない肝っ玉を持ってなきゃ、どっちにしろ本物にはなれんのである。その点、僕はひょっとしたら一生中途半端なままなのかもしれんなあ。承認されるとかされないとか、何をつまらんことを、でも、やっぱ気になるのよ。この点、「いいね」の数が即座に見えるようになってしまった時代の不幸というのは間違いなくある。
 
 
 だが、SNS到来後の人間がどう生きるべきかというのは、この時代に生きる哲学者が身をもって答えなければならない問いではあろう。唯一の慰めは、中途半端な人間だからこそ真剣に向き合える問いもないわけではないということである。おそらくは、自分自身の悩みを悩む中で時代そのものを悩むというのでなければならんなと思わされている次第なのである。