イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

論争は避けるべし

 
 論点:
 哲学者同士の対話は、できることならば、文章上のものよりも顔と顔を合わせての方が望ましい。
 
 
 この点、先人たちの歴史を見ていても、悲惨なケースは枚挙にいとまがないのである。
 
 
 たとえば、ライプニッツ・アルノー書簡だ。当時の最高の知性が言葉を交わし合ったというのに、少なくとも最初の方の雲行きはかなり怪しかった。「このお方は、まともな見識を持っているとは言い難いですなあ」みたいなイヤミに始まり、挙げ句の果てには「この人がどうしようもないのは、もうこの人の体液の組成からして仕方ないですよ(注:当時のヨーロッパ社会でも流通していた四体液説に絡めたディス)」みたいなNGワードすら飛び交った、非常に大人気のないものであった。
 
 
 でもこれって、この二人に限ったことでは全然ない。対面してないまま反目しあってると、人間のコミュニケーションって際限なくヤバい方向に突き進んでゆく。お互いに「いや、これはないわ」といったん思い始めてしまうと、相乗効果で互いに対するイライラや不信が増大してゆくのではないかと思われる。
 
 
 一方、対面してさえいれば、その辺は少なくとももう少しはなんとかなるケースが多いように思うのである。さすがに、顔を合わせた相手に直接ネガティブなことは言いにくいから、互いに対して一種の抑止力が働くわけである。というわけで、ある程度以上込み入った哲学上の議論は、なるべく直接に会って話した方がよいのではないかというのは、おそらくは少なからぬ同志の方々にも同意してもらえるのではないかと思う。
 
 
 
哲学者 ライプニッツ アルノー 四体液説 ドゥルーズ 宇野邦一 デリダ フーコー 対話
 
 
 
 哲学って、かくも深く友愛とつながりあっているわけで、敵同士になってしまった相手と一緒に哲学することはできないのである。多少なりとも知的に高度な悪口合戦に精を出したいというのでない限り、論争というのはできるならば避けた方が無難であることは間違いなさそうだ。
 
 
 しかし、人間ってまことに罪深いもので、他の哲学者たちのやり取りを眺めるときには、麗しき友情の逸話よりも誹謗中傷無制限バトルを観戦したいと思ってしまうのは、過ち多き人間の性というものであろう。かくいう僕とて、ドゥルーズ宇野邦一先生の間に交わされた、師弟愛に満ちた手紙(ドゥルーズから手紙もらうとか、ほんとうらやましいとしか言いようがないのである)を読んでいて喜ばしくないわけではもちろんないが、ポップコーンを片手に、ケンカを売ってきたデリダに対するフーコーの、エスプリあふれる容赦ないディスを読みふっけてる時にどうしようもなくテンションが上がってしまうこともまた事実なのである。
 
 
 ともあれ、最後に本題に戻ると、やはり対話というのは、直接に顔と顔を合わせてというのが極力望ましいと思われるのである。「メールや文章上での論争はできる限り避けるべし」を今日の結論としつつ、対話することについてもう少し考え続けてみることとしたい。