イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

理性の自己喪失

 
 論点:
 今日、哲学はおのれ自身の無能を苦しんでいるのではあるまいか。
 
 
 たとえば、デカルトをはじめとする17世紀近世哲学の時代には、哲学って、もっとずっと有能な何かに見えていたはずである。ていうか、哲学者がXY座標平面とか微分法とかを発明したりもしてたわけだから、それに応じて哲学の方もイケイケな雰囲気をかもし出していたというのは、まあ自然な流れだったのかもしれぬ。
 
 
 哲学はその時代、新たに生まれつつある、数学と結びついた自然科学とも歩調を合わせて、いわば乗りに乗りまくっていたわけである。んで、その後の18・19世紀くらいの時代にも、民主主義(より正確には自由主義)とか、いろんな社会変革をいわば後押しするような形で、哲学はこれまた良くも悪くもアゲアゲな雰囲気で突き進んでいた。
 
 
 つまり、近代の哲学は、理性の力能のその力能によっておのれを正当化することができていたわけである。「哲学は存在していていいんだ、なぜなら、哲学は有能で、ブリリアントだから」という言い分が大方としては通っていたのが、哲学をめぐる、ここ最近までの状況だったと言ってよいのではあるまいか。
 
 
 繰り返しにはなってしまうが、有能であるというのはまことに気持ちのよいものである。有能なものは、自分の存在理由に悩む必要がない。役に立って、もてはやされて、今よりももっとイケイケかつアゲアゲな未来を目指して突き進んでゆくわけである。有能なものにとっては、まさしく気分はもうザ・ワールド・イズ・マインなのである。
 
 
 
 哲学 無能 デカルト 民主主義 自由主義 近代 コンピューター AI 反出生主義 理性 
 
 
 
 ところが哲学は、そして人類は、ここ最近に至ってどういうわけか、以前にあったような、理性の力能に対する自信を失ってしまった。
 
 
 このことには、さまざまな背景が考えられる。たとえば、核兵器をはじめとする、ヤバいとしか言いようのない発明が次々に現れたことによって理性が一種のアイデンティティ・クライシスに陥ってるとか、あるいは、コンピュータやAIみたいなテクノロジーが発達してきていることによって、固有に人間的なものとして特権的だったはずの理性の力能が、単なる技術力の次元に貶められつつあるような外観を呈している、とかね。
 
 
 ここで述べているような状況は哲学だけじゃなくて人類そのものの状況にも深く関わっているので、非常に重要なのではないかと思われる。「人類ってオワコンなんじゃね?」とか「生きてる意味ってないんじゃね?」みたいな反出生主義的雰囲気は、実は昔からずっとあったことはあったんだけど、ここ最近に至ってますます存在感を増しつつあるように思われるのだ。
 
 
 こういう時代の流れは元をたどれば、「理性の力能によっておのれを正当化する」という近代のやり方が通用しなくなってきたということにその根源があるのではないかと、僕は思うのだ。かなり壮大な話になってきているが、いやこれ哲学的には大事な話だと思うので、哲学に関心のある方はお時間のある時にでもご覧いただければ幸いなのである。