「コギト・エルゴ・スム」に関して言えば、哲学的には次のような二つの与えを区別できるように思われるのである。
1.意識の与え、あるいは、思考するわたしの与え。(絶対確実性)
2.個人の与え、あるいは、現実の中で生きる「この人間」の与え。(根源的事実性)
1の方は、前回にも論じた「コギト・エルゴ・スム」である。こっちの与えはデカルトも言うように、何があっても絶対確実に真理である。これだけすべての物事がうつろっては消えてゆくはかない我々の生にあって絶対確実と言えるような真理が存在することは、今さらだけど、よく考えたらすごいことなんではないかという気がする。
ただし、この「わたしの与え」の真理性って、これもまたデカルトが補足を付けてるように、「そのようにわたしが考えるたびに」っていう条件が付いていることにも注意しておきたい。思考するわたしが存在していなかったら、というか、そのことが感じられたり考えられたりしていなかったら、絶対確実もへったくれもないわけであるよ……まあ当たり前のことではあるが。
ということは、たとえば素朴に考えると「自然科学の発見とかには、確実なものもあるんじゃね?」とか、もう少しマニアックだがより本質的な意見としては「論理法則とか数学はさすがに真理っしょ(これらのものは、コギタチオ=思考の働きにしか依存しないがゆえに)」という感じもするのであるが、とりあえず前者の意見に対しては、「『絶対』確実な真理とはっきり断言できるのは、ただ『コギト・エルゴ・スム』とそれに付随する諸真理のみ」と答えることができるであろう。後者の意見は哲学的には超弩級に重要な論点を提起してはいるが、今回の主題には属さないので、いずれ機会をあらためて論じるということにさせていただきたい……中途半端でごめん。
「ただし」って書いてからの注意書きが長くなってしまったが本題に戻ると、1の与えに加えて、もう一つの与えが存在するように思われる。それが個人の与え、あるいは、現実の中で生きる「この人間」の与えだ。
たとえば、僕は他の誰でもないphilo1985という一人の人間である。エド・シーランでもゴローマルでもなく、あるいはそれほど有名ではない他の誰かでもなく、philo1985といううだつの上がらない哲学者の人生を生きているということは、少なくとも「思考するわたし」でもある僕自身にとってはめっちゃ重要な事実であることは言うまでもない。
今は僕自身の例を取ってみたけど、このことはもちろん「わたし」を越えて「あなた」についても言えることである。
あなたはわたしには知りえない「思考する意識」を生きているのと同時に、他の誰でもない「この人間」をも生きている。哲学とは当たり前の事実に対してそれにふさわしい仕方で驚くことでもあると思うのだが、すべての「わたし」に対して一人一人の「この人間」が与えられているという根源的な事実には、今さらとはいえ、やはりめちゃくちゃ深い形而上学的な含蓄があるのではないかと思う。思惟の務めとは、足早に通り過ぎたりせずに、まずはこの深みを前にして立ち止まることのうちにこそあるのではないかと思われる次第である。