イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在することの、否定しがたい重みについて

 
 論点:
 人間の不幸の少なからぬ部分は、現実性という様相を軽視するところから生まれてくるのではないか。
 
 
 当たり前にも聞こえるかもしれないけど、現実っていうのは非常に大切なものである。しかし、現実というのは、頭の中で思い描いているヴィジョンや理想よりも、必然的にはるかにしょぼいものであることを避けられない。
 
 
 それ言っちゃったら身も蓋もないみないな話ではあるが、世の中の問題って、もうこれはどうにもならんみたいなもので溢れてるわけである。んで、そういう問題にはとうぜん解決策とかはないから、われわれ人間の側としては、もう放置するしかないわけである。どうしようもない。
 
 
 「……。」
 
 
 んで、「もうこれ、どうしようもないよちくしょう」とか思ったとしても、人生とか現実ってそのまま続いてゆくわけであるよ。
 
 
 たとえば、ローマ帝国の滅亡というケースを例に取ってみることにしよう。仮に僕たちが紀元四世紀の後半あたりに生まれることがあったとしてだよ、なんとか国家を存続させるために死ぬほど頑張ったとしたら、ローマの滅亡を食い止められるであろうか?
 
 
 「……いや、ムリでしょうね。」
 
 
 うん。たぶん、絶対ムリだ。社会はどんどん分解してくだろうし、破滅までの年月をいくぶんか延ばすことくらいはできるとしても、文明は、早かれ遅かれ消え失せるであろう。ゲルマン人たちが暴れ狂うのを止めることはできないであろう。何やっても、どうあがいても、結局最後に人間の耳に響くのは、ギオンショージャの鐘の声、である……。
 
 
 
ローマ帝国 ゲルマン人 SF的空想 VR 諦念
 
 
 
 歴史を学ぶことの意味の一つって、めちゃくちゃ後ろ向きではあるけど、ああ、もうどうしようもないのねっていう感覚を身につけることにあるのではなかろうか。ともあれ、ここでかの「ギオンショージャの鐘の声」と共に思い出されるのは、次のような先達の言葉である。
 
 
 知恵の言葉:
 置かれた場所で咲きなさい。
 
 
 身にしみる。このブログでもすでに何度か取り上げたような気もするけど、何度味わっても深く身にしみるとしか言いようのない至言である。この、さりげない優しさのこもった穏やかな命令法。そして、この命令法のうちにひっそりと息づいている、静謐な厳しさと決して切り離すことのできない愛。
 
 
 「置かれた場所で咲きなさい」は、人生究極これに尽きるんではないかというくらいの名言のように僕には思われるが、ともあれ、この言葉は、哲学的な文脈からすれば「現実性を軽視することなかれ」と言い換えることもできるであろう。現代を生きるわれわれの頭脳はSF的空想とかファンタジーとかVRで発狂してはいるが、現実とは往々にして重いものなのである。踊ろうとしても踊れない時だってたまには、いや、相当にあるわけである。
 
 
 そういうことすべてを諦めて受け入れた時、すなわち、諦念に次ぐ諦念によって鍛え上げられ、もう何も求めず、何も期待せずという境地に達した時にこそ、ああ、意外とこの世界って悪くない部分もちゃんとあるんだなということが、深く静かに納得されるのではなかろうか。とにかく、こればっかりはたぶん実地で体験するよりほかに仕方がない。現実性と可能性の非対称という論点については、人生の中で長い時間をかけて体で学んでゆくしかないように思われるのである。