イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間性なる概念をめぐって

 
 二つ折れの与え:
 意識としてのわたしの与えと「この人間」としてのわたしの与えとは、二つでありながらひとつながりであるような出来事の生起として与えられる。
 
 
 当たり前ではあるが、重要な話である。哲学とは、自明には見えるけれども根源的な事柄を、どこまでも深く分け入りつつ理解することなのではあるまいか。
 
 
 そして、繰り返しにはなってしまうが、この「二つ折れの与え」という出来事を十全に引き受けることこそが、人間を本当の意味で人間たらしめるのではないかと思われるのである。そして、ここから哲学という営みに対するもう一つの見方も出てくる。
 
 
 論点:
 哲学とは、人間が人間たらんとして行い続ける絶え間のない努力にほかならない。
 
 
 おそらくは、他のあらゆる真剣な人間の営みについても、同じことが言えるのであろう。ともあれ、ここでは考えておきたいのは、人間であること、人間になることの気高さとも言うべきものだ。人間になるということは当たり前のことではなくて、それ自体が大きな達成であるはずなのだ。
 
 
 もちろん、それぞれの人間には欠点もあるし、もっと言うと罪もあるだろうから、人間性なるものを持ち上げすぎるのも考えものではある。しかし、言葉の十全な意味において人間になることができるとすれば、人間は、その時にはやはり何か尊いことを達成したことになるのではないか。少なくともそれが、ヒューマニズムという言葉のうちにこめられている深い意味なのではないかと思われる(あらゆる「現代思想」に対して、この言葉を擁護してゆく必要性がここにある)。
 
 
 
二つ折れの与え ヒューマニズム 人間性 現代思想 人道主義 信仰 ルネサンス 生成変化 人間の死
 
 
 
 したがって、ヒューマニズムって言っても、いわゆる人道主義みたいなものだけを言うのではないことには注意しておかねばなるまい。また、僕には信仰があるゆえ、あんまりヒューマニズムっていう言葉そのものを推しまくることもできないのではあるが、それでもルネサンス期の哲学者たちみたいな例をも鑑みつつ、やはり、この言葉を引っ張り出してくる必要性を感じずにはいられない。
 
 
 現実のわれわれは、邪悪で俗悪で怠惰である。でも、本当の意味で人間らしくある、言葉の十全な意味において人間になるという目標まで見失ってしまったら、その時にはもう、本当に何も残らないのではあるまいか。ヒューマニズムって、大事なのだ。あんまり面白みはないかもしれないけど、「動物への生成変化」とか「人間の死」とか言ってた方がテンション上がるかもしれないけど、しかしそれでも、めちゃくちゃ大事なことのはずなのである。
 
 
 地味である。もっとセンセーショナルなこと言わないとつまらんみたいな側面もあるかもしれないが、最近は、真理って、地味な中になんかキラリと光るものがあるみたいな性質を持っているものなんではないかという気もする。今のままでも地味なのに、このままさらに地味な道を突き進んでいったら最後にはどんなことになってしまうのであろうかと思うと少し気になるが、やはりとりあえずはこのまま気にせず地味道を歩み続けるべきなのではないかと思われるのである。