イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現代のカリクレス

 
 論点:
 哲学は存在忘却が存続する限りにおいて、力能との闘いを停止することはないであろう。
 
 
 「できる」は、もっと言えば「する」は、この世の至上の関心事である。しかし、哲学はそれよりも先に、無力なる「ある」の方にこそこだわり続けねばならぬ。
 
 
 「コギト・エルゴ・スム」の第一義は、果てしのない認識拡大という植民地主義に奉仕することではなく、「わたしはある」という根源的事実への立ち返りでなければならぬ。わたしは、ただ在る。この「ただ」の無条件性に、存在の与えが「ただ」与えであるということそれ自体に眼差しを向けねばならぬ。
 
 
 同様に、予定調和の上の階においてのみならず、下の階においても、このことは当てはまる。すなわち、他の誰でもない「この人間」として、「わたしはある」。ただし、人間としての「わたしはある」とは、死を背負わされ、病に脅かされ、おのれの無能に苦しみ続けるほかない惨めな実存でもある。力能による自己への幻惑によって、実存のこの本質を打ち消すことはできぬ。
 
 
 すなわち、哲学は力能を相手に、二重の密かな闘いを闘うのである。一方では、何度でも息を吹き返してくるコギタチオの帝国主義に対して、コギトそのものに、棄却することのできない「わたしはある」に立ち返り続けることによって(形而上学のポスト・コロニアル)。他方では、自己超克というイデーによって死という運命を逃れようとするあらゆる変身の思想に対して、目を背けずに「この人間」であることの惨めさを見つめ続けることによって、である(仮借なきリアリズムとしての実存哲学)。
 
 
 
存在忘却 コギト・エルゴ・スム 植民地主義 根源的事実 実存 力能 自己超克
 
 
 
 形而上学、あるいは哲学そのもののうちに含まれる力能とのこの対抗関係はつまるところルサンチマンに端を発するものなのではないかという批判が、かつて哲学自身の内からなされた。力能を存在に敵対させるのではなく、存在そのものを力能のうちで捉えようとするフリードリヒ・ニーチェの哲学はおそらく、多くの聞くべきものを含んでいる。
 
 
 しかし、存在忘却という宿命がある意味では存在そのものの動向のうちにすでにはらまれているという事情を鑑みる時、哲学はやはり、力能なるもののうちに無視できない危機の徴候を見て取らないわけにはゆかないのではなかろうか。困難なのは、ついにとばかりに再び力能に目を向けることではなく(それは、一面では疑いようもなく「力への意志」でもあるわれわれの必然にすぎない)、むしろ思惟の努力によって、存在忘却という根源的逸脱に抗い続けることの方なのではないかということで、上の批判に対する答えとしたい。
 
 
 哲学を学び始めた頃にはそれほど疑問も感じていなかったけれど、最近では、ニーチェとは現代のカリクレスだったのではなかろうかとの感を禁じえない。われわれの前の世代のフランスの哲学者たちのほとんどはニーチェに賛辞を捧げることを惜しまなかったものではあるが、僕としてはやはり、ニーチェの思想は哲学の正道からは逸脱したものだったのではないかと思わずにはいられないのである。