イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在と純粋愛

 
 論点:
 「存在のみ」の次元は、純粋愛の問題を提起せずにはいないように思われる。
 
 
 あらゆる力能を奪われ、ただ生きている、ただ存在しているという状況に置かれた時、人間は、次のような問いに直面せざるをえないのではあるまいか。
 
 
 問い:
 純粋愛は存在するのか?
 
 
 純粋愛とは、何かができるから、何かを持っているから、あるいは、何かの愛すべき特質を備えているから注がれるというのではなく、ただ存在しているというそのことによって注がれる愛である。人間の生は、どこかで純粋愛の存在を要請せざるをえない宿命を背負わされているのではなかろうか。
 
 
 もちろん、このような愛を十全な仕方で注ぐことのできる人間というのは、この世には存在しない。力への意志としての、コナトゥスとしてのわれわれは、エゴイズムという癒しがたい病に罹り続けながら生きてゆくほかないからだ。
 
 
 しかし、それにも関わらず、われわれ人間は苦しみのただ中で、純粋愛の存在を要請せざるをえない。無償の愛など人間の世界にはないことをどこかで知りながら、それでも最後には無償の愛を求めずにはいられないというのが、人間存在の避けがたい運命であるように思われる。
 
 
 
存在 純粋愛 力への意志 コナトゥス エゴイズム 形而上学 哲学
 
 
 
 論点:
 純粋愛の問題は私たちを、隣人との関わりへと向けずにはいない。
 
 
 無償で人を愛するなんていうことは、人間にはできるはずもないのだ。あるいは、もし仮にできるとしても、それは驚嘆すべき奇跡の業としてしかなされえないに違いない(このことにはおそらく、形而上学的にも、神学的にも論争の余地がない)。愛について、語ることくらいならできるかもしれない。愛の業をなすことは、絶望的なほどまでに難しい。
 
 
 しかしである。隣人たちが苦しみのうちで呻いている時、助けの手を差し伸べることができるのは、罪人であるわれわれの一人一人だけなのである。どうしようもなく利己的で、救いようもなく卑劣なわれわれの一人一人が、隣人を自分自身のように愛することを求められているのである。
 
 
 存在の思索は、どこかでこの純粋愛の問題を提起せねばならぬ。形而上学の問いかけは、根本のところでは最も日常的かつ痛切な倫理の実践的次元に突き当たるのでなければならないのである。かくして、存在問題を愛の問題と結びつけながら究明するという課題は、哲学の至上の務めの一つとなろう。この辺り、どうやって事を運べばよいのか、どのような言葉がこの務めにふさわしいのかという点については、これからも模索し続けねばならぬ。