イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

レヴィナスへの疑問

 
 論点:
 他者の意識は、わたしの意識からはどこまでも隔絶したところに「存在」する。
 
 
 エマニュエル・レヴィナスは他者のことを、「存在」ではなく「存在するとは別の仕方で」として捉えようと努め続けた。それは、わたしに対する他者の超越の、その超越性に対する畏れと敬意とを失わないための破格語法とも言うべきものであった。
 
 
 事情は擬ディオニシオス・アレオパギテースに始まる、いわゆる否定神学の場合と正確に重なっている。
 
 
 否定神学の伝統は、神の絶対的超越性を人間の認識によって捉えることの不可能性を強調するために、「神性の闇」という表現を用いた。この伝統によるならば、神は「闇」と言い表される。なぜなら、神は認識することのできるものの次元、すなわち光の次元には、決して収まりきることがないからだ。
 
 
 しかし、いかに破格語法であるからといっても、神を闇と表現してしまうことは正当なのであろうか。神は闇のうちというよりも、むしろ「近寄りがたい光のうちに住まわれる」のではないのか。
 
 
 トマス・アクィナスが存在の類比という新たな語法を見出すことによって神の超越性を語り直したことの必然性はここにあった。神は確かにいわゆる存在を超えてはいるが、それでもなお「在る」。いわば、擬ディオニシオスが行った問題提起に対してトマスは、神を「存在」(存在と本質とが異なることなく、その本質が存在そのものであるような存在者)と捉える存在の哲学を築き上げることによって応えたわけである。
 
 
 
エマニュエル・レヴィナス 存在 超越 ディオニシオス・アレオパギテース 否定神学 破格語法 超越性 イリヤ 反出生主義
 
 
 
 ここでの議論の本筋からすると蛇足ではあるが、「存在するとは別の仕方で」として他者を捉えていこうとするレヴィナスの発想は、「ある」を匿名性と全体性のうちで捉える、ある種独特な「ある」の理解とセットになっている。いわゆる「イリヤ il y a」としての存在理解であるが、これはこのブログの筆者の観点からすると、反出生主義的な存在理解の極北をなすものとして注目を要するものであると言えそうである。
 
 
 この点については場所を改めて論じる必要がありそうであるが、本題の他者問題の方に戻るならば、われわれには他者について考えてゆく場合にも存在という語を放棄せずに、やはりどこまでもこの語を用い続けてゆく必要があるのではなかろうか。
 
 
 われわれは「ある」という事態を表現するのに「ある」以外の言葉を、「存在」以外の語彙を持ち合わせていない。レヴィナスが他者をいかに「存在するとは別の仕方で」として語ろうとも、それはやはり何らかの「ある」を語るための破格語法でしかありえないのではあるまいか。
 
 
 従って、筆者がレヴィナスに向ける疑問の核心とは「レヴィナスは存在という語を用いていないというだけで、実質的には『ある』あるいは『存在』という語彙を用いることによってしか指し示すことのできない事態を言い表すために『存在するとは別の仕方で』という表現を用いているにすぎないのではないか」ということになる。非常に多くのことを学ばせてもらった先人であるだけに、批判めいたことを語るのには何か気が引けるところがあるが、敬意と反対論の提示とは矛盾しないと思われるので、ここに彼の哲学に対する疑問を提示しておくこととしたい。