イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在の超絶と非-現象学

 
 論点:
 「存在の超絶」は意識の彼方を指し示す限りにおいて、非-現象学を要求している。
 
 
 他者の意識は、わたしの意識からは隔絶して存在している。他者である限りの他者は、その本質から言って、決してわたしの意識に現れることがないのである。
 
 
 他者であるあなたは、現れることを拒絶する。あなたは、わたしをまなざし、わたしに向かって語りかけ、わたしに触れさえもするけれども、あなた自身の内奥をさらけ出すことはない。現れることのただ中での、現れることへのこの密やかな拒絶を、レヴィナスは「顔」の経験として描き出した。
 
 
 無限なものの無限化という出来事として、顔の経験が非常に重要なものであることは間違いないだろう。
 
 
 しかし、ここで強調したいのは、顔の経験があろうとなかろうと、ある意味においてはその関係と関わることなしに、他者の意識は厳然として存在し続けるだろうということである。つまり、他者の意識が存在するという時のその「存在」は、わたしの経験(それが顔の経験であろうとなかろうと)からは隔絶しているのではないかという点に、ここでは改めて注意を向けてみたいのである。
 
 
 従って、この「存在」について語ることは、意識の経験を記述するという道によっては可能とならないであろう。ここで必要とされているのは、現れえないものが現れてくる逆説的経験を描き出す「現象学の神学的転回」ではなく、現れから完全に切れたところでなおも存在について考えること、なおも存在を彼方に認めること、すなわち、非-現象学としての形而上学なのである。
 
 
 
存在の超絶 非-現象学 他者 レヴィナス 顔 全体性と無限 存在するとは別の仕方で 顔
 
 
 
 『全体性と無限』までのレヴィナスにおいては、「現れないものの現象学」とでも呼びうるものを築き上げようとする姿勢が際立っていた。『存在するとは別の仕方で』に至って、彼の哲学は、ここで語ろうとしているような「非-現象学」の地点にほとんど足を踏み入れていたのではないかとも思われるが、ここではその点についての断定はとりあえず差し控えつつ、本題の方に立ち戻ることとしたい。
 
 
 もとより、非-現象学という語は近代の哲学の大前提に逆らうというばかりではなく、知なるものの本質にさえも逆らうようなところがある。現れないものについて、わたしはいかにしてそれを知りうるというのか。そして、「知りえない」と言うならば、そのものの存在について語ることすらもできないのではないのか。
 
 
 顔の経験すらもなされないところで、それでもわたしにはなお他者の存在について語ることが可能なのであろうか。存在の超絶というイデーは、現れること-知ること-存在することという三つ組の結び目が外れたところで、なおも存在について語るという方向性を示唆している。哲学の黙示的瞬間とは、筆者には、現象学としての哲学の極限において「知ならざる知」が、見られず、聞かれず、触れられることもない超絶として非-現象学が啓示される瞬間なのではないかと思われるのである。