イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

乗り越え不可能な隔たりについて

 
 補助的考察:
 わたしとあなたには、互いがそれぞれ哲学的ゾンビではないことを「証明」するためのいかなる手段もない。
 
 
 もちろん、わたしとあなたには会話することで、お互いに哲学的ゾンビクオリアを持たない「生ける屍」)ではないであろうとの見込みを限りなく高めてゆくことはできるし、実際的な方面ではそれで十分であることは言うまでもない。しかし、当たり前すぎるこの事実を「確認」しあうだけでなく「証明」しようとすると、ひとはその時には原理的な不可能性に向き合わされることになる。
 
 
 なぜと言って、もしもあなたが「わたしはゾンビではない」と言ってくれたとしても、そのあなたが「自分はゾンビではないと主張しているゾンビ」である可能性は、理論的には残るからだ。同様に、わたしが、自分はゾンビではないということをいかに相手に対して強調しようとも、「自分はゾンビではないと涙ながらに訴えるゾンビ」ではないと相手に証明することはできないのである。
 
 
 「コギト・エルゴ・スム」をめぐる議論の蒸し返しにはなるが、わたしにとっては、わたしが哲学的ゾンビではないことは絶対確実に真なのである。
 
 
 「わたしはゾンビなのではないか」と疑っているわたしは、疑うという思考の働きそのものによって自分がゾンビではないことを証ししている。なぜならば、心を持つことのない哲学的ゾンビなら、そもそも疑うということもありえないからだ。言葉の定義からの当然の帰結ではあるが、哲学的には「わたしはゾンビではない」と「考えるわたしは『存在する』」とが等価であるという点を確認しておくのは重要なのではないかと思われる。
  
 
 
哲学的ゾンビ 生ける屍 コギト・エルゴ・スム 存在 存在の超絶
 
 
 
 しかし、問題なのはここからで、わたしにとって、これ以上に明らかなものはないというこの絶対確実性を相手にそのままの形で伝えることは、わたしにはできないのである。
 
 
 「わたしの存在はあなたの存在ではないし、あなたの存在はわたしの存在ではない。」当たり前といえばあまりにも当たり前の事実ではあるが、自然的意識はこの事実を絶えず忘却してゆく傾向にある。「わたしとあなたは同じものを見ているはずだ」は無条件の想定として、そのように想定されているという事実さえも含めて忘れられてゆく中でわたしの生は営まれているのである。
 
 
 しかし、コミュニケーションは本当に透明なのだろうか。わたしには、「わたしは存在する」というこの確信をあなたに伝達することさえもできないのだ。それならば、あなたもまたあなた自身の秘められた「わたしは存在する」を、わたしに伝えることはできないのではあるまいか。あなたが存在するというその存在に、わたしはついに触れることができないのではないだろうか。
 
 
 哲学的ゾンビをめぐる思考実験が浮かび上がらせるのは、わたしとあなたの間にある、この乗り越えることのできない隔たりなのではないかと思われる。この隔たりをいわば逆照射する限りにおいて、この概念は「存在の超絶」をめぐる問題圏へと哲学を導かずにはおかないものであると言えるのかもしれない。