論点:
他者の意識は、論証も証明されることもなしに厳として存在し続けるであろう。
他者であるあなたが哲学的ゾンビ(前回までの記事参照)ではないということは、理論的には証明できない。しかし、その証明不可能性にも関わらず、あなたが存在するという確信が、わたしから取り去られることはないであろう。
そして、このことは単に確信されている信念であるというだけではなく、端的な事実でもあることは間違いないように思われる。他者の意識は存在する。ある意味では、わたしの存在が絶対確実に真であるのと同様に、ほぼ確実に存在するとさえ言いうるのではないだろうか。
存在の超絶とは、決して否定することのできないこの他者の存在を、現れの彼方において、非-現象学の地平において思惟してゆこうとする立場から提出された概念である。この概念は、「コギト・エルゴ・スム」を揺らぐことのない土台に据えようとするあらゆる哲学に対して、異議申し立てを行おうとしている。
他者の存在は、その根底においてはわたしの知の秩序に属することがない。思惟と存在とを等値しようとする立場は、いわば、自ずから崩れ去っていることが告知されないままに崩れ去っているのではなかろうか。独我論の崩落は、何らかの推論からの論理的帰結としてではなく、それがもともと一つの幻に過ぎなかったことへの気づきとして生起するということになるのではないかと思われる。
驚くべきなのはしかし、この崩落が起きないままにコギトが「夢を見続ける」という可能性もありうるということ、コギトが、存在することと知ることとの紐帯を決して断念しないこともありうるという事実の方なのではあるまいか。
他者の「わたしはある」を認めるとは、わたし自身の「わたしはある」の不完全性を認めることである。わたしの知には、いわば無数の穴が空いているのだが、わたしには原理的に言って、その穴の存在を直接に知ることはできず、ただ知が完結することは決してないであろうという予感あるいは確信を抱くことができるだけである。
もしも完結された知を絶対知と呼ぶことにするなら、絶対知に至ることは不可能なのである。隣人たちが、他者たちが存在するという事実そのものによって、わたしの知は、それが歪んでいることすらも決して示されることのない「歪んだ鏡」であることを運命づけられているからだ。
存在の超絶というイデーは、窓のないモナドに窓を開けようとする試みにわれわれを導くことはない。それはむしろ、窓がないという形而上学事実に徹底的に向き合わせることによって、モナドの外部の存在を辛うじて予感するという、身の丈に合った務めを人間に対して指し示しているのではないかと思われるのである。