イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

モラリストの危険

 
 「存在の超絶」からの論理的帰結:
 他者についての知は、原理的に言って不完全なものであることを運命づけられている。
 
 
 他者の意識は、わたしの意識を超絶したところに「存在」する。どんな知も、わたしとあなたの間のこの隔たりを完全に埋めあわせることはできない。
 
 
 したがって、他者であるあなたのことを「完全に理解した」と思い込むことほど愚かなことはないであろう。あなたの「わたしはある」は、わたしの「わたしはある」によって包摂されたり、抱握されたりすることを静かに拒み続けるであろう。
 
 
 知は論理的整合性を追い求めるあまり、この整合性なるものを、本当はそれが見つからないところにまで拡張してしまうという厄介な性質を持っている。知は、知らないものを知らないとするよりも、知らないものは類推によって知られうるという仮説に従うことを望まずにはいないからだ。
 
 
 言うまでもなく、この偏好も全く根拠のないものではなく、知は、類推によっておのれを拡張してゆくという以外の手段を持ち合わせていないのである。この点については、ヒュームからフロイトに至るまで、隣接性と並んで、類似性が人間の知識や無意識の形成物の構成原理と考えられてきたことを思い起こしておいてもよいかもしれぬ。
 
 
 しかし、他者の超絶は、その究極のところにおいては一切の類推を拒絶する。超絶はあらゆる心理学の越権を撥ねつけ、モラリストの知を弾劾し、あなたに対するわたしの独断を退けずにはおかないであろう。
 
 
 
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 したがって、人間について学び続けようとする哲学者は、あらゆる人間学の中心そのものに位置するこの深淵のことを、絶えずどこかで意識し続ける必要があるのではないか。この深淵は知の探求によって明るみにもたらされることは決してありえず、人間はそこに深淵があるという事実そのものをさえも忘れ去る時に、他でもない自分自身の知によって徹底的に欺かれているということになる。
 
 
 モラリストの危険の最たるものは、まさにここにあるのではないかと思われる。人間性の一大目録を作り上げること、独学で自分自身の「人間学」を打ち立てることは、ある意味ではたやすい。といよりも、自覚的であるにせよ、そうでないにせよ、そのような営みに全く無縁であるという人間はこの世にいないことだろう。
 
 
 しかし、恐らくはどんなに歪んだ知の体系であっても、その内側にあってはそれなりの整合性と体系性を備えているものなのである。困難なのは、知を追い求めてゆく望みを放棄せずに、それでも究極のところにおいては知そのものを無に帰しかねないような深淵が存在することを認め続けることなのではあるまいか。存在の超絶は、ついに完成された知の円環をではなく、円環を砕き続ける知の崩落という出来事の方をこそ指し示しているように思われるのである。