イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超絶と証言

 
 論点:
 他者の存在はわたしを超絶しているが、それでも、何もかもが知りえないというわけではない。
 
 
 ここからは「存在の超絶」を前提とした上で、他者について知りうることについて探ってみることにしたい。というのも、他者の超絶という事態のうちに含まれる、その超絶性を切り下げることはできないとはいえ、その他者について何もかも知りえないというわけではないように思われるからである。
 
 
 まずは、次の論点から考えてみよう。
 
 
 論点:
 他者は、わたしと同じように意識を持っていることだろう。
 
 
 筆者はここで『デカルト省察』におけるフッサールのように、他者経験から他者が構成されてくるありさまを語りたいというわけではない。そうではなくて、他者であるあなたがわたしと同じように意識を持つというのは、決して否定することのできない根源的事実なのではないかと言いたいのである。
 
 
 あなたの「わたしはある」は、わたしの「わたしはある」からはその存在を証明することはできない。しかし、そうしたわたしの側からの証明不可能性、そして、体験不可能性からは全く関わりなく、あなたの意識は存在する。
 
 
 わたしには、あなたが何を感じ、何を考えているのかが十全に明かされることは決してないであろう。しかし、あなたは何かを感じ、何かを思惟している「別のコギト」なのではあろう。決して届くことのない形而上学的隔たりの向こう側で、それでもあなたがわたしとは別の「考えるわたし」であるということは、否定することのできない端的な事実であるとしか言えないように思われるのである。
  
 
 
 存在の超絶 デカルト的省察 フッサール コギト 現象学 エマニュエル・レヴィナス
 
 
 
 超絶は確かに、一切の類推を遮断する。しかし、他者の意識が存在するということ、このことは何らかの類推から導き出される帰結ではなくて、むしろ剥き出しの事実に他ならないと言わざるをえないのではないか。
 
 
 現象学の枠内にとどまる限り、ひとはこの「存在」を認めることができない。「あなたはある」ということ、他者であるあなたの「存在」は、非-現象学の地平において、知の正当性を放棄しつつも、それでもなお存在を語ろうとするぎりぎりの地平において語られる。それは、証明の可能性を一切欠いたままに、それでもなお根源的な確信をもって発される、あなたについての「証言」である。
 
 
 知りえないはずのものの証言者であるということ、一度も示されたことがなく、これからも決して示されることがないであろうあなたの存在を証しするものであるというこの事実、そのことへと最初に哲学の注意を向けさせたのは、他でもないエマニュエル・レヴィナスその人である。筆者の彼の功績に敬意を払いつつ、他者についての「知ならざる知」の可能性についてさらに掘り下げてみることにしたい。