イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超絶と掟

 
 問題提起:
 他者に対する贈与は、厳密に考えるならば、算定不可能な行為としてしかなされえないのではないだろうか。
 
 
 他者であるあなたの意識は、わたしの意識を超えたところに存在している(存在の超絶)。したがって、この超絶する他者に対して「善をなす」ということは、常に確定不可能な結果を伴う行為としてしかなされえないのではないだろうか。
 
 
 わたしを超絶するあなたは、ひょっとすると、わたしが思い描くような人間ではないかもしれない。したがって、善をなすつもりで行ったわたしの言葉や行為があなたに対してかえって悪をなしているという可能性は、原理的に言って打ち消しえないのではないだろうか。
 
 
 しかしまた、その一方で、私たちは日々の生において、次のような掟を与えられてもいる。
 
 
 掟の言葉:
 あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい。
 
 
 人間であるわたしには、わたしの思い描く「もう一人の自分」としてのあなたに向かって善を行おうとする以上の選択肢は与えられていないのである。わたしがあなたという人間を取り違えてしまう可能性は常に付きまとわざるをえないにせよ、それでもわたしには、あなたを想像し、その「想像されたあなた」に向かって善をなそうとする以外の他者への向き合い方は存在しないのである。
  
 
 
他者 超絶 隣人 反出生主義
 
 
 
 〈同〉と〈他〉とのこの交錯、われわれの愛が避けがたく負わされているこの運命は、わたしとあなたの距離がどれだけ縮まったかに見える時であっても忘れるべきではないであろう。しかし、そうだからと言ってわたしが、あなたに対して善をなすという務めを免除されることもまた決してないのではあるまいか。
 
 
 現代とは、「存在することは善である」という命題すらも確かさを失ってしまった時代である(反出生主義的時代としての現代)。「わたしにとっての善は、あなたにとっての善ではないのではないか」という不安は取り去られることはないし、また、少なくともある程度までは、この不安は持たれてしかるべきものでもあるだろう。
 
 
 しかし、隣人を愛せという掟、隣人に対して善を、それもわたし自身を超絶した隣人に対して、この知られえない深淵としての「わたしはある」に対して善をなせという掟が無効になることも決してないし、そのことはおそらく、他でもない私たち自身が日々、倦怠と不安と共に感じられてもいる事実なのである。愛の問題は、厄介ではあるが決して逃れることのできない問いかけとして、人間の実存をこれからも絶えることなく問い質しつづけるであろう。