イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真理と教育

 
 論点:
 他者であるあなたの意識はわたしの意識を超絶してはいるが、真理は、そのわたしをもあなたをも越えてとどまり続けるであろう。
 
 
 これまで自己と他者について、「存在の超絶」という言葉を手がかりにして論じてきたが、ここからは、この両者を二つながら越える審級について考えてみたいのである。
 
 
 当然といえば当然の話ではあるが、真理は、人間の意志によってはどうにもならない。自然科学や人文知における真理のそれぞれは、私たちがどう望もうと、それを否定することのできない動かしがたさを備えているのである。
 
 
 「力への意志」を標榜する哲学は、この動かしがたさを前にして挫折を被らざるをえない。おそらく、人生における学びとは、意志なるものの気高さとともに、意志によってはどうにもならないものに服従する必要性をも知ってゆく過程なのだろう。
 
 
 他者はわたしを超絶している。しかし、その超絶する他者であるあなたもまた、わたしと同じように人間である。
 
 
 わたしもあなたも、真理には、自分自身の有限性には、そして、死には従わなければならない。第三の審級である真理には、この世で生きるどんな人間にも逆らうことは不可能であると言わざるをえないのである。
 
 
 
自己 他者 存在の超絶 人文知 自然科学 力への意志 有限性
 
 
 
 おそらくは、教育という行為に正当性があるとすれば、それは、わたしとあなたに対する真理の超越というこの事態に基礎を持つに違いない。
 
 
 わたしに対するあなたの超絶を忘れるとき、教育は避けがたく傲慢なものとならざるをえない。超絶そのものであるあなたは、必ずやわたしの知らない何事かを知っていることだろう。したがって、あなたを単なる「物知らず」とみなすあらゆる僭越な忠告や説教は、かえってわたし自身の無知をさらけ出すという結果しかもたらさないであろう。
 
 
 しかし、わたしが決して完全には知ることのできないあなたもまた、人間であるがゆえの有限性と無知からは逃れられないのである。そして、わたし自身がかつて味わった惨めさを、わたし自身が後からは恥としたような過失をあなたが免れていないように見えるとき、そのあなたに向かってわたしは、自分自身の信ずるところを伝えずにはいられないのではないだろうか。
 
 
 教育とは、知ることと無知であることをめぐる、このぎりぎりの尖端で行われる行為であるように思われる。そこには抵抗と反発が、誤解と失敗が必ず付きまとう。学ぶ側ではなく、教える側が誤っていることも多分にある。それでも、人間から教育という営みを奪い去ることは人間性そのものを終わらせることになろうし、思考する人間としてのわたしが今日このように考えているという事実それ自体が、おそらくは、わたしがこれまでに与えられてきた言葉と教えによることなのである。