イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『こころ』の問題圏

 
 問い:
 恋は、哲学という営みからの逸脱であるか?
 
 
 たまには、文学作品を参照しながら考えてみることにしよう。夏目漱石の『こころ』においては、恋に落ちることは真理の道なのではないかという問いが提起されているのである(以下、一応はネタバレ注意であるが、この作品を読んだことのない人を探す方が難しいかもしれぬ)。
 
 
 作中人物のKは、「お嬢さん」に恋をする。ところが、この恋は、Kにとっては自分自身の存在を許せなくなってしまうほどの堕落を意味していた。
 
 
 Kにとっては、自らの「思想」を追求することこそが生きることの意味であった。しかるに、「お嬢さん」への思いに引きずられて自分自身を見失っている自己の姿は、Kにとっては見るに耐えないものだったのである。こうして、Kはこの問題に対する最終解決としての、自殺の道へと突き進んでゆくのである。
 
 
 現代の読者から見れば、これは非常にショッキング、というか、ショッキングを通り越してもはやポカーンとしか言いようのない筋立てである。Kは、決してお嬢さん萌えの沼にうつつを抜かしているというのではなく、彼女に真剣に恋しているのである。恋くらいいいではないか、ていうか、好きになったんなら追いかけるのも人生大事なんではという読者のツッコミを一切無視しながら、Kは薬屋に駆け込むロミオよろしく、自殺への最短距離を駆け抜けてゆく……。
 
 
 
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 西洋哲学を奉じている身からすると、問題は複雑である。というのも、哲学の伝統においてはプラトンの『饗宴』以来、恋は哲学の道に反するものではない、むしろ、哲学やるんなら恋くらいしとけという見方が連綿と続いてきたからだ。
 
 
 文学を見てみても、ダンテの『神曲』なんかはベアトリーチェたん萌え一色で覆われている(?)かの感があるし、ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』に至るまで、恋と真理の間には深いつながりがある、という見方は、基本的には揺らぐことがなかったように思われる。夏目漱石自身が積んだ教養の内実とも深く関連することは間違いであろうが、恋することは「道」に反するというKの立場は、すぐれて東洋的なものであることは確かである。
 
 
 ともあれ、『こころ』における漱石の筆致は、真理の道を歩もうとする人間が、自らの意志に反して恋の引力のうちに絡め取られつつ煩悶するKの姿を描くことによって、かえって恋と真理との間の一筋縄ではゆかない関係を証ししているのではないか。ギリシアからヨーロッパに至る、恋愛に対してはゆるゆるな(というか、イケイケドンドンな)西洋の思想伝統と、「お堅い」東洋との衝突と交錯の証言として、夏目漱石の『こころ』は非常に興味深い人物形象を提示しているように思われるのである。