ところで、死について考えるという企てについては、次のような疑問もあるかもしれぬ。
疑問:
なんでわざわざ、そんなテンション下がるようなこと考えるんすか?
確かに、こんなこと考えててひょっとしたら考えてるストレスのせいで胃腸の調子が悪くなったとしたら悲惨の極みでしかないなと思うと、この疑問にも一定の理はなくはないのではないかと思われるのも事実である。この疑問は、突き詰めれば次のような立場に行き着くのではないかと思われる。
死の探究への反対論:
哲学は生の喜びを増すことに努めるべきであって、死についての陰鬱な瞑想にのめり込むべきではない。
人間、生きている時が大事とはよく言われることである。その点、まだ死にかかってもいないのに「死んだらどうしよう」と言って延々とうじうじするのは、「今のこの瞬間を生きている、この生」に全力を注ぎ込んでゆくことの妨げになる部分もあることは否定できない。
このことはそもそも、考えるという行為一般についても言えることである。考えに考えまくってうじうじしている人よりも、頭を空っぽにして生き生きと行為している人の方が、多くの人にとっては魅力的に見える。哲学の道を志す人のうちには、周囲から「そんなに考えすぎてどうするの?」というツッコミを受けた経験がある人も少なくなかろう。
以上の考察からは、次のような帰結が導かれることは避けられないように思われる。
反対論の検討から、導かれる帰結:
死について考えることから何らかの益を引き出せるのでない限り、死について考える哲学者は非常に惨めな人間であると言わざるをえない。
哲学者っていう種族自体がそもそも惨めな人々に他ならないのではないかという、さらに根底的なツッコミもある。ともあれ、考えるからには、ああ、考えてよかったなと思えるような成果を残したいものである。
ただし、考えに考えた結果として何らかの善に導かれるかどうかは、それこそ考え続けてみないとわからない。筆者も、気がついてみると哲学以外の道はなくなってしまった。死について考えるというのも、もはや「やめときなよ」と言われてもやめられそうにない。時すでに遅しである。
しかし、今この時に現にこうして考えている以上、考えることには何らかの意味があるのではないかと直観しているからこそ、現にこうして考えているのであろう。理屈を超えたところで働く「ここには何かあるはずだ」という感覚こそが行為としての思考を駆動しているというのは、哲学的に見ても割と重要な論点なのではないかと思う。