イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

若干の脱線

 
 本題からは少し逸れてしまうが、この機会に以下の論点について考えておくこととしたい。
 
 
 論点:
 直観は、生の偉大な導き手である。
 
 
 たとえば、今の主題である死に関しても、「哲学者にとって、死について考えることは重要である」と言われた時に、「その通りだ!」と感じるか、「ああ、そう」と思うかは、まずはフィーリングの問題である。
 
 
 考えることを務めとする哲学においても、直観は探求の導き手なのである。問題を立てるということにしてからが、直観の深い働きなしには行われえないであろう。
 
 
 このあたりの事情を哲学的に掘り下げまくったのが、前世紀の哲学者であるアンリ・ベルグソンだ。
 
 
 SWの話を絡めてしまって申し訳ないのではあるが、ベルグソンが後年に行き着いた「エラン・ヴィタル(生の躍動)」はもはや「フォースの導き」としか言えないんではないかというくらいに、「フォース」の概念に接近している(むしろ、フォースの方がエラン・ヴィタルに接近しているのではないかとも思われるが、筆者には最近、そのあたりの見境がつかなくなりつつある)。
 
 
 SWの生みの親であるジョージ・ルーカスがエピソード1中で提示した「ミディ・クロリアン」という設定には、ファンたちはひどく憤慨したものであった。ジェダイの偉大な力であるフォースが、オビ・ワンが、ダース・ヴェイダーが、そしてルークが使ってきたあのフォースが、あれって実はウイルスまがいのバイオ・パワーだったんよと言われてるかのような示唆がなされ、ファンたちは泣くやら悲しいやら、あるいは唖然とするやら絶望するやら、果ては怒るやら、これらすべての罪はジャージャーにあり、ジャージャーを引っ込めろこんちくしょうとわめき立てる暴徒まで現れるやらで、一大論争を巻き起こしたものであった。
 
 
 
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 筆者は、今では大のクワイ=ガン・ジンのファンであり、また、エピソード1もまだSWファンとしては年季の入っていない中学生の頃に見て感激した年齢層に属するので、決してアンチ・プリクエル主義者ではない(むしろ、熱意浅からぬエピソード3信奉者と言ってもよいかもしれぬ)。しかし、ミディ・クロリアンの設定が、おそらくはファンたちの猛烈な拒絶反応によって2以降の展開から姿を消していったことは、SWシリーズにとってはやはり善だったのではないかと思う。
 
 
 われらのスター・ウォーズが「人間と極小微生物との共存をテーマにした壮大な命の物語」と化すというのは、悪夢以外の何物でもない。マスター・ヨーダからルークが学んでいたのが微生物の働きだったとか言われたら、確かに惑星ダゴバは生物多様性も存分に保たれているビオトープな雰囲気満点ではあるが、われらにはもはや耐えられぬ。「SWに微生物を持ち込むな」というのは、すべてのSWファンの心の底からの叫びであろう。
 
 
 脱線の中でさらに話が逸れまくってしまったが、すでに紙幅も尽きてしまったゆえ、ベルグソンの話に戻るのは遺憾ながら次回ということにしたい。完全なSW内輪話になってしまって見ていない方には申し訳ないとしか言いようのない展開ではあるが、筆者は今、二人のジェダイの前に立ちはだかるダース・モールの姿をもう一度見ておかねばならないのではないかという思いに捉われている……。