論点:
哲学の探求も、かなりの部分まで直観に拠りつつ行われざるをえない。しかし……。
たとえば、死についてのエピクロス派の考えは、筆者にはどうしても人間を納得させてくれるものには思えないのである。
エピクロス派の主張:
死は、人間にとっては何物でもない。
彼らの主張のポイントは、死んでいる時にはもはや人間はおらず、人間が生きている時には死はいまだない、ということのようである。従って、彼らによれば、人間が死を恐れるというのはナンセンス以外の何物でもないということになるようだ。
繰り返しにはなってしまうが、これで死について納得できるとは、筆者にはどうしても思えない。これで納得できるのって、もともと死ぬことそれ自体にそこまで問題を感じていない場合に限られるのではなかろうか。もともと「死ぬのめっちゃ怖い」って思っていて、最終的には「人間にとって、死は存在しないも同然である、というか実際にも文字通り存在しない」という悟りに到達した人がもしもいるとすれば、それはそれでリスペクトではあるが……。
ところで、哲学の生命は直観だけではなく懐疑にもあるので、自分自身の直観を信頼しすぎるのも考えものではある。しかし、自分の中で結論を出す際には、おそらくはどんな哲学者であっても自らの直観に頼らざるをえまい。直観と懐疑の相克の中でどのように推論と判断を下すかが、哲学者の腕の見せどころなのかもしれぬ。
それにしても、エピクロス派の上のテーゼには納得できない。「死についていたずらに思い悩むのはよくない」くらいであれば、まあ、それはあるかなという感じではあるが、「死は何物でもない」には無理があるのではないかと思わずにはいられないのである。
しかし、彼らの主張から、一つの興味深い論点を学びとることはできるかもしれぬ。それは、人間がどれだけ死を恐れていたとしても、死が無になることを意味するのだとしたら、死んだ後にはもはやその不安も恐れもその人の存在とともに消え去っているであろうということだ。
仮に、人間は死んだら無になるとしてみよう(後述するように、筆者はそのようには信じていないけれども)。そうだとすれば、死んだらその後には不安も恐れも存在しないのは明らかである。
だって、不安を抱いているその人ももう消滅しちゃっていないんだもんね。彼あるいは彼女は、無に帰したのである。「死ぬのめっちゃ怖い!」と叫びまくってたその人は今や、無の安らぎ(?)の中へ、完全なるゼロの沈黙の中へと帰っていったのである。
というわけで、エピクロス派の主張の検討からは、「もし死が無になることを意味するのならば、死に対する恐れもいずれ必ず無に帰すであろう」という帰結が導かれることになる。この主張については、もう少しこれを掘り下げてみる必要がありそうである。