イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたし自身ではありえない」

 
 論点:
 もしも、死が無に帰することを意味するとすれば……。
 
 
 仮に、人間が死んだら無になるとしてみよう(繰り返しにはなるが、筆者自身はそう信じているわけではないけど。しつこくてごめん)。
 
 
 その場合、何をどうやったとしても、われわれにはいずれ無に帰するという運命を変えることはできぬ。めっちゃ怖いけど、遅かれ早かれ、将来に待っているのは完全な無である。ぶるぶる。
 
 
 唯一の慰め(?)は、エピクロス派の人々も強調しているように、無というのは、もしそれが無であるならば文字通り完全な無なので、死んだその後にはもはや不安も恐怖も存在しえない、ということである。明晰判明に思考するために、死への恐怖がたどる道を二つのフェーズに分けてみることにしよう。
 
 
 ①死への恐怖による、極度の不安状態。
 ②完全な無。
 
 
 ①の段階は、苦しみ以外の何物でもない。苦しむその人によって個人差はあるであろうが、そこでは、うおお死にたくない、せめて乃木坂46の姿を一目見てから死にたい、ていうか僕の人生って一体何だったんだようおおん等々、さまざまな妄念と思考が乱れ飛ぶことであろう。
 
 
 それに対して②は、何の苦痛もない、寂静そのものでしかありえない絶対寂静である。自分自身が永遠に消滅すると思うと恐怖に襲われるのは人情というものだが、その恐怖すらも、死んだ後には完全に消え去るのである。それってある意味、究極の救いなんじゃねって考える人も、中にはいるかもしれぬ。
 
 
 
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 こうなってくると、死がはたして善であるのか悪であるのか、よく分からなくなってくる。より突き詰めて言うならば、やはりエピクロス派の人々の言う通り、(死が無になることを意味するのであるとしたら、という条件付きではあるが)死は何物でもないという結論が導かれることになるだろう。
 
 
 ②は本当は、自分には全く関わりのない状態なのである。いわば、対岸の火事である。自分に関係するのは①だけなのであり、①の不安にどう対処するかという点だけが、おのれの自由になる対処可能領域なのである。よく生きよ、ということだ。あなたはどこまでも生でしかなく、死はいかなる意味においてもあなたではありえないのだから。
 
 
 かくして、われわれ人間の向き合うべきは風や光や大地や乃木坂46等々、すなわち種々さまざまな原子の戯れ、〈多〉という名の音楽を奏でるそれぞれの存在者たちであって、存在の対極たる無ではないということになる。ここまでの考察からはさまざまな論点を引き出すことができそうであるが、とりあえず筆者としては、生きているうちにまだ見ないで残している『マンダロリアン』シリーズを今のうちに見ておかねばという覚悟があらためて定まったのである。これを書き終わったら、心して第一話を見ることにしよう。