イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

もしも全てのことが、無に帰するとすれば……。

 
 論点の再提出:
 「死んだら一体どうなるのか」という問いは、この世ではほとんど発されることがない。
 
 
 「死ぬ時には苦しみたくないよね」みたいな話なら、たまに話題に上ることもなくはないだろう。しかし、これはすでに論じたように、あくまでも「死」へと至る途上における「生」の苦しみについて話しているのであって、死という出来事そのものについて話しているのではない。
 
 
 あるいは、最近では終活ということがよく言われるようであるが、これも相続とか身辺の整理とか、要するに生きている側の話に限定されることがほとんどのようである。「死んだら一体どうなるのか」という、われら哲学者が問題にしたい問いが発されることは、やはり皆無に近いものと思われる。
 
 
 つまりである。「死んだら一体どうなるのか」という非常に重要な問いは、宗教の領域を除くならば、それこそ哲学においてしか発されることのない問いなのではあるまいか。
 
 
 しかし、おそらくは「死の問題は重要だ!」と哲学者たちがいかに騒ぎ立てたところで、この世がこの問いに今よりも熱心に向き合うようになるとは思われない。「はあ」「変わってますね」「なんでそんなに気になるんですか?」といったような反応が返ってくるならば御の字といったところで、「暗い」「重い」「辛気くさい」等々の冷たい反応が返ってくることも覚悟しておかねばなるまい。
 
 
 というわけで、筆者も余計な試みにエネルギーを浪費することはやめて、ただ粛々と世の片隅で哲学し続けることにする。哲学から孤独な求道という側面を取り除くことはまず不可能であるし、仮にできたとしても、その方がかえって残念なことになるんではないかという気がする。この点については、学問とは、究極的にはただ己のためにするものであると言いうるのみである。
 
 
 
終活 宗教 哲学 マクドナルド ウェンディーズ ベーコネーター・ダブル マンダロリアン ハンバーガー ぜんアツ!ダブチ ダブルチーズバーガー
 
 
 
 それにしても、「死んだら一体どうなるのか」という問いは、なぜ重要であると言えるのか。それは言うまでもなく、次のような論点を無視することはできないからなのではあるまいか。
 
 
 論点:
 もしも、死んだら無になるのであるとすれば、われわれが存在していることにも意味がなくなってしまうのではないだろうか。
 
 
 生きてる時が重要なんだよ、とはよく言われることである。でもさ、死んだら無になるんだとしたら、生きてることに意味なんてないってことになってしまうのではないか?いや、より正確に言うならば、生きてる今は意味あるっぽいけど、いずれ結局死ぬ時には全部意味なくなっちゃったみたいな結末になるんではないか?
 
 
 たとえば、筆者は今日、マクドナルドで「ぜんアツ!ダブチ」なるハンバーガーを買って食べた。筆者的には、最近のお気に入りはやはりウェンディーズのベーコネーター・ダブルであるが、いや、思ったよりも迫力のある一品であった。マンダロリアンである。
 
 
 しかしこれも、もしも死んだら全てが無に帰するのであるとしたら、死ぬまぎわにこのことを思い出すとして、「まあ僕もこれからかき消えるわけだけど、あのハンバーガーうまかったなあありがとね」みたいな気持ちになれるのであろうか。すまぬ、ぶっちゃけ単に、期間限定のダブルチーズバーガーがなかなかうまかったと言いたかっただけで、別に論点をどう展開するとかはあんまり考えていなかったので、次回以降にもう少しこの論点を掘り下げてみることとしたい。