イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

赤ちゃんの愛らしさ

 
 さて、本題に戻るとしよう。
 
 
 論点の再提示:
 他者のために何かをするということは、たとえ自分が死ぬとしても意味のあることなのではないだろうか。
 
 
 この点、いちばん範例的であるのはやはり子供、とりわけ赤ちゃんであろう。
 
 
 赤ちゃんのかわいさについては、異を唱える人はほとんどいないであろう。動物であっても人間であっても、赤ちゃんはかわいい。超絶プリチーな赤ちゃんたちを眺めていると、この子を世話してあげたいという思いが自然と湧き上がってくる。
 
 
 余談ではあるが、全米、そしてわが国でも絶賛話題沸騰中(?)のTVドラマ『スター・ウォーズ  マンダロリアン』シリーズでは、ベビーヨーダなる赤ちゃんキャラクターが登場する。この子は、あの叡智あふれるマスター・ヨーダと同種族の緑色のエイリアンなのであるが、この子がもう、ドラマの中では悶絶級と言うほかないかわいさを振りまいているのである(興味をお持ちの方は、Googleあるいはyoutubeの検索ワード欄に「ベビーヨーダ」なる禁断の文字列を入力されたし)。
 
 
 こんなキャラを生み出してしまった製作陣の方々には、途方もないあざとさを感じずにはいられないのである。SWはゆるキャラの跋扈する忖度の場であってはならぬと眉をひそめつつも、このベビーヨーダちゃんの愛くるしい姿にはやはり、抗うことができぬ……。
 
 
 話が若干逸れてしまったが、とにかくここで言いたかったのは、とりあえずは当たり前だけど「赤ちゃんはかわいい」の一言に尽きるのである。そのかわいさを生み出した〈自然〉の叡智、あるいは狡知にはただ驚嘆するほかない。その叡智を模倣、あるいは濫用(?)するゆるキャラなる存在は許されるのかという哲学問題は、別の機会に改めて考えておく必要がありそうであるが……。
 
 
 
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 とにかく、話を本題に引き戻すならば、この赤ちゃんのかわいさを目にした時には、ひとは自然と「他者のために生きる」という実存可能性の方へと引き寄せられずにはいないのではないだろうか。
 
 
 「この子のために、何かしてあげたい。」『マンダロリアン』でも、主人公のマンドー(常に被っている分厚い仮面がそこはかとなくチャーミングである)は、このままだと殺されてしまうであろう天涯孤独のベビーヨーダちゃんを、自分の身の危険をも顧みずに連れて逃げるという道を選択する。賞金稼ぎとして情け無用の世界に生きているはずの男がいわば情に絡めとられてしまうわけで、やはり、赤ちゃんのかわいさ恐るべしと言わざるをえない展開といえるであろう。
 
 
 それはそうと最近、このブログを読んでくれている子から「philoさん、最近のブログを読んでいると、この人にはSWと現実の区別がついているのかどうか不安になります」というコメントをもらったのであるが、筆者がSWの話を持ち出すのは、あくまでも哲学の議論を進めるためであるのは言うまでもない。確かに、筆者の脳内ではもはやSWの歴史と史実が日に日にごた混ぜになってきており、デス・スターの爆発はある意味で長篠の戦い以上の現実の出来事になりつつあるのだが、最後のところで分別は一応保っているつもりではあることをここに付け加えておくこととしたい。