イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

超絶と多様性

 
 論点:
 人間の多様性について親しく知ってゆくことは、人生の中で最も大切なことの一つである。
 
 
 たとえば、なぜハリポタ好きは女性の方が多いのか。J・K・ローリングが女性だからっていうのも大きい気はするけれど、それでは、ハリポタのどこがどう、女性たちの心をくすぐるのであろうか。
 
 
 いやね、僕だって一応は、ダンブルドア先生とかスネイプ先生とか、嫌いではないんよ。むしろ、マニアックだけどマクゴナガル先生とか結構好きだし、ドビーだけはマジで究極にLOVEだ。でもさ、「エクスペクト・パトロォーナァム」とか叫んで棒振ってるより、断然ライトセーバーじゃん!しかし、たとえそう主張したとしても、世の中にはおそらく「何言ってんの断然ハリポタじゃん」という人も少なからずいるのであろう。
 
 
 あるいは、納豆とかもそうである。僕はもう、納豆を食べない方が一日でもあると不安でぶるぶる震えだすというくらいの納豆フリークで、まあでもそれは納豆が体にいいはずだから毎日食べてないと一日を終われないようおぉんという不幸な神経症的不安も多分に混じってはいるのだが、まあでも納豆は好きである。おそらくは人生の最後の日にも、温泉卵と海苔をかけて納豆を食べているのではないかと思う。
 
 
 しかし周知の通り、納豆ってダメな人は、もうこれ食べるなら断食した方がマシってくらいにダメな場合が非常に多い。納豆嫌いな人を納豆派に改宗させるというのは、おそらくは極度に困難な任務となるであろうというのは想像に難くない。
 
 
 
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 世の中にはかくして、どうにもならない位に多様な性質を持った人々であふれている。この人々、我々も無論その一部分なのであるが、とにかくこの人々を、なんらかの一元的な原理や制度で無理矢理にまとめ上げようとすることは、おそらくはこの人々が持っているエネルギーの勢いを大きく削いでしまうことにつながるであろう。
 
 
 人間の多様性を知ってゆくというのはだから、人類共同体を作り上げている力の根源を知ることにも等しい。そして、筆者の観点からすると大変に重要なのは、多様性を知ってゆくというこのことが、他者という〈存在の超絶〉と人間が関わってゆく上で欠かすことのできない学びなのではないかということである。
 
 
 他者であるあなたは、わたしの存在を超絶している。その意味では、わたしにはあなたの意識を直接に知ることは決してできないけれど、超絶であるあなたは、あなたのことを知る手がかりの〈しるし〉を絶えず発し続けているのではないか。
 
 
 多様性とは、〈存在〉の目に見える豊かさそのものに他ならないけれども、この豊かさの本当の深みは、目に見えない他者の超絶をどこまでも忘れることのない人間にこそ明かされるのではないだろうか。いきなり話が形而上学的な方向に切り替わってしまったが、筆者は最近、形而上学や神学の認識は、人間の実際の生にも非常に深く関わっているということをますます強く実感させられているのである。