イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『全体性と無限』を書いた時期のレヴィナス、あるいは、二十世紀哲学史あれこれ

 
 論点(再提示):
 師は、弟子よりも先に死ななければならない。
 
 
 ハイデッガーについてはすでに前回書いたから、もう一人の師についてもここに書き記しておくこととしたい。筆者はここ数週間、エマニュエル・レヴィナス先生の『全体性と無限』を読み直しているのである。
 
 
 いや、すごいですよ。『存在と時間』もすごかったけど、この本には、またそれとは違ったすごさがある。この本には、五十代の半ばを迎えたベテランの哲学者が到達した、円熟と完成の境地がそこかしこに示されているのである。
 
 
 ドゥルーズ先生の『差異と反復』なんかもそうだけど、めちゃくちゃ高度な哲学的論点が古典への参照とともに、至るところで短い文章のうちに凝縮されてて、修練を積んだ同業者以外お断り感がハンパないのである。いや、僕が言ってもしょうがないのかもしらんが、これは本物の仕事ですよ。この本の最初の段落からして、すさまじいオーラを放っていると言わざるをえないのである。
 
 
 『全体性と無限』序文、最初の段落における師の言葉:
私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。それを知ることこそがもっとも重要であることについては、たやすく同意がえられることだろう。(岩波文庫熊野純彦訳より)
 
 
 いやもう、失禁するしかないですよこれは。じょぼじょぼ。たやすく同意が得られるとか言われましても、同意するどころか、まず意味がよくわかりませんよ。それでも、哲学とか文学に関してフォースが強い人なら、なんかものすごいことが言われているというのは、学部生でも感知できるであろう。
 
 
 あと二十年したら、ここまで行かねばならんのか(その前にまず、それ位までは死なないでいたいものである、びくびく)。驚くべきは、レヴィナス先生はこの本ののちに、さらに発狂した問題作『存在するとは別の仕方で』を書いて発表してしまったことである。この本は、問いかけのあまりのラディカルさのゆえに、同業者からも、ほとんどレヴィナス研究者以外では反応は皆無という名著であるが、この本のすごさは置くとして、本物を目指すのであるならば、まずは円熟の時期に『全体性と無限』的なマスターピースを仕上げねばならんということなのか……。
 
 
 
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 ちなみに、「誰もが首をタテに振らざるをえないマスターピース→本人以外もはや誰もついてこれない、発狂した問題作」という順序は、大哲学者たちがたどるわりと一般的なルートであるように思われる(余談ではあるが、芸術家たちも、このルートをたどることが非常に多いようである)。
 
 
 ハイデッガー先生なんかは『存在と時間』でドイツ哲学界を瞠目させたが、その十年後に書いた『哲学への寄与』は政治的事情以外にも、恐らくはあまりにもその内容がラディカルすぎたこともあって、本人によって死後まで(!)封印されていた。しかし、ハイデッガー先生の後期の思索の基本的な発想はかなりの部分、この本にすでに入っているので、この本こそは『存在と時間』と並ぶ先生の「この一冊」と言ってよかろう(先生はこの著作の中で、能う限りの暴走を尽くしておられる)。
 
 
 われらの時代の哲学徒たちのリスペクトを一身に集めているドゥルーズ先生も、『差異と反復』では、まあこの本もすでにかなり発狂してるんだけど、それでもまあ当時のフランス哲学界で受け入れられたわけで(今とは違って、ハジけまくることが積極的に賞賛されるというちょっと異様な時代でもあった)、これを読んだフーコーが狂喜してほめまくったというのは有名な話である。しかし、発狂したパートナーであるガタリと発狂して書いた『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』となるともうめちゃくちゃで、後者なんかは「世間から完全に無視された」とか言って先生はぼやいていたそうであるが、あれだけぶっ飛んだものを書いて評価してもらうというのも、それはそれで無理があるんではないかという気がしないでもない。それはともかく、すでに紙幅も尽きてしまったので、次回こそは「師は、弟子よりも先に死ななければならない」にたどり着くことを目指すこととしたい。しかし、哲学史の噂話ってかいててめちゃくちゃテンション上がるから、いずれ「臨場感たっぷりに独断と偏見を交えて語る、二十世紀哲学史」みたいなものを書いてみたいところであるな……。