イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

プロティノスと「真の人間」

 
 これまではどちらかと言うと弟子の立場から考えていたが、ここからは、師の立場から師弟関係について考えてみたいのである。
 
 
 論点:
師は、弟子の人間性について熟知しているのでなければならない。
 
 
 真理の伝達というのはおそらく、全人格的な営みである。古代の終わりを生きていた哲学者である、プロティノスを例にとって考えてみよう。
 
 
 プロティノスはなんでも、大の人間通だったとのことである。弟子の言い伝えによると、召使のうちの一人が盗難騒ぎを起こした時も、彼らを呼び集めてしばらくじっと眺めただけで誰が犯人であるかを当てたそうであるし、大勢の良家の人々が彼の類まれなる人格を信頼して、自分の子どもの教育を彼に委ねたとのことである。彼は人間について深く知り、彼自身も真の人間としての人生を生きたということなのであろう。
 
 
 ところで、彼の哲学の内実について考えるとき、これらのことは、哲学徒に深い感慨を与えずにはいないのではあるまいか。
 
 
 プロティノスは何も、人間くさい「モラリストの哲学」を奉じていた哲学者ではなかったのである。むしろその反対で、彼の哲学の中核は、〈一者〉(ト・ヘン)と呼ばれる、言語を絶した何ものかから知性も魂も生物も全宇宙も流出してくるという、いわば神秘哲学中の神秘哲学とも言えるようなテーゼであった。このテーゼを礎石として作り上げられた一大体系によって、プロティノスはいわゆる新プラトン主義と呼ばれることになる潮流の祖となったわけであるが、これまた弟子の伝えるところによると、先生は生涯のうちに四回、瞑想のただ中で、この〈一者〉との完全な合一(!)を体験したとのことである……。
 
 
 
弟子 プロティノス 召使 モラリスト ト・ヘン 一者 神秘哲学 新プラトン主義 形而上学 倫理 プラトン カント フォース
 
 
 
 〈一者〉との合一というのはあまりにもぶっ飛びすぎているので、筆者はその点についての判断を下すことは差し控えるが、ともあれ、以上のことから師弟関係について得られる教訓について考えてみることにしよう。
 
 
 最近ではますます強く実感させられているのであるが、哲学って、人間性の完成とめちゃくちゃ深く関連しているのである。人間の世界からはある意味では隔絶しているようにみえる形而上学の世界も、実は人間的なものとの根底的なつながりのうちで成り立っているはずである(倫理と形而上学とは、一つである)。
 
 
 プロティノスだけでなく、プラトンやカントを始めとして、人間通をもって知られた先人たちは枚挙にいとまがないのである。彼らはみな、「哲学とは究極的に言って、人間に始まり人間に終わるものである」と確信していたもののように思われる。人格的完成のいかんは哲学とは全く関係ないと主張する人がもしいるとすれば、その人は暗黒面に堕ちているとは言わないまでも、おそらく正しいフォースの道からは少なくともいくぶんかは逸れていると言わざるをえないのではあるまいか。
 
 
 本物の師になれるのは、人間なるものについて深く知る「真の人間」だけである。道の遥かさを思うとただ途方に暮れるばかりだが、日々の積み重ねがいつか道の完成につながると信じて、今日も隣人という名の大学の門をくぐるのみ、である……。