問い:
弟子は、師に対して絶対の忠誠を守る義務があるのだろうか。
この問いに対しては、心苦しいのではあるが、否と答えねばなるまい。師を敬わねばならないというのは基本中の基本であり、自分の判断よりも師の言葉を優先しなければならないのは確かだとしても、そうであるはずなのである。なぜならば……。
論点:
弟子が絶対の忠誠を守るのは真理に対してであって、師に対してではない。
つまるところ、師も人間なのである。めちゃくちゃ偉大な人間でも、彼あるいは彼女が人間であるかぎり、どこかで間違いはするものなのである(cf.『創世記』9章20-28節)。完全な人間をこの世に求めるという望みが裏切られるとしても、それは多分、その望みの方が間違っているということなのではなかろうか。
しかし、それでもこの世界には、尊敬すべき人々がいる。彼らは多分、色んな点においてマジで残念なのではあるが、それでも彼らのうちには、われわれを尊敬させてやまないものがあることも確かである。彼らのあらゆる残念さを越えて、彼らの偉大さ、彼ら自身に由来するのではなく、彼ら自身が従っている〈真理〉から来る偉大さが、われわれの心を打ってやまないのだ。
だからこそ、彼らが間違っている部分においては、われわれは彼らではなく、むしろ真理に従わねばならぬ。彼らもわれわれも、人にではなく、人を超える真理にこそ従おうと努めているのであってみれば。たとえハイデッガー先生であろうと、レヴィナス先生であろうと、ドゥルーズ先生であろうと、先生方が間違っている場合には、いや、先生方に間違ってるというなんて畏れ多くて申し訳なく、不遜なこと言ってほんとすみませんという気持ちもおそらくは捨ててはならないのではあろうが、いやしかし、いざというその時、真理そのものが問題であるその時においては、われわれは彼らに反駁を加えることを恐れてはならぬ、はず……。
誰かが言っていた。師の最後の仕事とは、弟子によって越えられることであると。
そうなのだ。どんな人間の仕事も、別の誰かによって乗り越えられてゆくはずの橋なのである。その橋はどこに通じているのか。真理である。一体、真理以外のどこに通じているというのか。一人で勝手に盛り上がっててごめん。しかしこれって、何気にめちゃくちゃ大切なことなのではなかろうか。
人間って、一人では究極の真理にたどりつくことはできないのだ。それぞれの哲学者は、先人たちと飽くなき対話を続けながら、それぞれの仕方で究極の真理に近づこうとする。
究極の真理なんてどこにもないと、言うのはたやすい。しかし、究極の真理がどこにもないとするならば、われわれが哲学をしていることの意味はどこにあるというのか。哲学とは、時代から時代へと移りゆきながら人から人へと受け継がれてゆく究極の真理の探求ではないとしたら、何なのであろうか。
咎と過ちで満ち満ちている人間の営みに対して「究極の真理の探求」というような極端な表現を用いてしまうと、とたんにその語りが胡散臭くなってしまうことは避けられないことである。しかし、哲学をやっている限りはどこかでこの「究極の真理」なるものに関わらざるをえないということもまた、確かなのではなかろうか。ともあれ、師弟関係についてのわれわれの考察も、この辺りで要所中の要所に差しかかっているように思われるのである。