イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「海辺の街を歩くように……。」

 
 論点(再提示):
 弟子によって越えられることが、恐らくは師の最後の仕事である。
 
 
 師は、自分が教えてきたことを弟子が自分のものにするまでは、弟子が勝手なことをするのを許さないであろう。しかし、師が言葉の真の意味における人間であるならば、弟子を永久に自分のもとに引きとどめることはできないことも、知っているに違いない。
 
 
 世界は、一人の人間が知ることのできるよりもはるかに広い。真理は、ただ一人の哲学者が究めるができるよりもはるかに深いのである。自分よりも後に学び始めた人間、それも自分から多くのことを学んだ人間が、自分を越えて未知の世界へと歩み出てゆくということも、当然あるだろう。
 
 
 それでも、人間は他者に何かを伝えたいと願わずにはいられないものなのである。真理を巡って結ばれる人と人との関係ほどに美しいものが、この世に何かあるだろうか。
 
 
 恋人が、生きるということ、お互いの人生をめぐるさまざまな人やものについて、海辺の街でも歩きながら語り合うとする。生きることの幸福がそこにある。そういう時間を永遠に引きとどめることができないのは悲しいけれど、それでも、そういう時間を持てるということが、他にかけがえのない幸福であるということには変わりがない。
 
 
 見た目ははるかに地味ではあるけれど、師と弟子の関係にも、これに似たようなものがあるに違いない。師は伝えたいのだ。自分がこれまでに見知ってきたこと、自分が学びとったことのすべてを、自分ではない誰かに、自分の話に耳を傾けてくれる親しい誰かに、一つ一つ丁寧に伝えたいのである。
 
 
 
弟子 恋人 師
 
 
 
 師は、弟子に対して伝えるべき何かを持っている。それは師が、弟子よりも先にこの世に生まれてきて、弟子よりも先にこの世を旅してきたからである。
 
 
 師には、たくさんの冒険があった。本もたくさん読んだ。決して人には言えないような過ちもあったけれど、美しいものも数え切れないほど見たし、人生とはこんなにもすばらしいものなのかと思うことも、幾度となくあった。
 
 
 師はそういうことのすべてを、弟子に伝えたいのである。心をこめて自分の話を聞いてくれる弟子がそばにいてくれるということが、嬉しくてたまらないのである。
 
 
 おそらく、弟子には弟子の人生もあるのだろう。弟子はひょっとしたら、師が知りもしなかった世界に、自分から学んだのちに出かけていってしまうのかもしれない。それでも、師は構わないのだ。弟子は、師が本当に伝えたかったことを、心をこめて聞いてくれたのだから。
 
 
 自分が心をこめて語ったことを聞いてくれる人というのは、どこかにいるのである。この世の片隅にいようとも、世からもてはやされていなくとも、そういう人は、誰かが本当に大切なことを語ってさえいるならば、必ず耳を傾けてくれる。世の中がどういうことになろうとも、人間は語り続けなければならない。師が弟子に最後に伝えたい言葉とはおそらく、今まで自分の話を聞いてくれてありがとうということに尽きるのであろう。