イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

死についての探求の終わりに

 
 そろそろ、今回の探求に一区切りをつけておくことにしたい。
 
 
 結論:
 善き師として生きることが、哲学者が死に対して行いうる最大の抵抗である。
 
 
 途中から、死については全く語られなくなってしまったが、これはある意味では事柄の本質から出てきたことであった(決して、筆者のいい加減な性格に由来することではない……はずである)。人間は、死のことを全く恐れないでいられるほどに、生の充実の側に身を置いて生きるべきなのではなかろうか。
 
 
 もちろん、ある程度までのメメント・モリは、気を引き締めてゆくためにも必要であろう。「ひょっとしたら病気になるんじゃないか、ていうか、いま地震があって天井が落ちてきたらどうしよう、うじうじ」という筆者のどうしようもないうじうじも(悲しいことに、この悩みは事実である)、それが実存の有限性に、ひいては本来性に立ち返るための契機になるならば、すべてが無用なわけではないと言えるはずである。
 
 
 しかし、やはり決定的に重要なのは、たとえ今日死ぬとしても意味のある務めを果たし続けることのはずである!そして、哲学者の務めとはまずもって、よく学び、日々学びを深めつつ、後続の世代を倦まず弛まず教え続けることなのではなかろうか。
 
 
 良くも悪くも、「哲学徒」ではなく「哲学者」として活動するとは、弟子ではなく師として活動することである。筆者も読む人間としては弟子であるが、書く人間としては師として生きざるをえない(cf.修論とか博論を書くというのは、師として語るという修練のはじめであり、特に博論を書き上げるとはまさしく、師としてデビューすることに他ならないであろう)。筆者も、限りなくしょぼくも見えるこの現状ではあるが、惑星ダゴバでルークを教えるマスター・ヨーダを模範としつつ、日々考え、書き続けねばならぬ……。
 
 
 
メメント・モリ 有限性 惑星ダゴバ ルーク ヨーダ 哲学者 信仰 
 
 
 
 ところで、信仰者としては本来、死について考えるのならば、どうしても神についても考えておかねばならないところである。筆者の中でもこの点についてはかなりの部分まで結論が出ているのだが、今回はそのことについて書くのは控えることとしたい(興味をお持ちの方は、だいぶ前のものにはなるけれど、『ひとは死んだらどうなるのか』というシリーズを参照していただければ幸いである)。
 
 
 一つには、筆者的には、今はブログ上では神学にはあまり踏み込まずに哲学を掘り下げる時期なんではないかと思っているというのがある。というか、信仰についてはただ書けばいいというものではないというのが、体で分かってきたような気がしているのである。
 
 
 いや、わかんない。この点については筆者自身、大切なことから逃げてるんではないかという気がするという側面も、正直言ってなくはないのである。いずれにせよ、天におられる父(ほとんどの信仰者は、この方に向かってあまりにも軽々しく呼びかけを行うという傲慢の罪を免れていないであろうし、筆者もその一人である)が、罪人である筆者を憐れんでくださることをただ願うばかりである。うじうじしながら哲学について書き続けるというのが、この世での筆者の運命なのであろうか……。
 
 
 最後は微妙なことになってしまったが、とにかくそんな感じなのである。次回以降も哲学史に特大の風穴を空けるその日に向けて、地味に書き続けてゆく予定である。読んでくださっている方にはいつものことながら感謝というほかないのであるが、どうか、日々のうがいと手洗いの弛まぬ実践によって、皆さまの健康が守られんことを……。