イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

潜勢状態としての完全無双

 
 論点:
 人間は、目標を設定する時には非常に気をつけなければならない。
 
 
 これは、何気にめちゃくちゃ重要なことなのではないかと思われる。
 
 
 たとえばである。ある人が、「同期の仲間たちの間で、一番の哲学者になる」と目標を立てたとする。その人の目標が達成された場合、その人は何になるであろうか。
 
 
 「……それは、同期の仲間たちの間で、一番の哲学者でしょうね。」
 
 
 そうだ。それでは、その人がもしも「全国で一番の哲学者になる」という目標を立て、それが達成されるとしたら、どうだろう。
 
 
 「……その場合には、その人は全国で一番の哲学者になるんじゃないですか。」
 
 
 その通りだ。それではアガトンよ、学問の徒としては、前の方と後の方の目標のうち、どちらを立てるべきとしたものだろうか。
 
 
 「……まあ、その例で言えば、後の方ってことになるんでしょうかね。」
 
 
 そうなのだ。目標を低く持ったとしたら、もしそれが叶ったとしても、悲しくもしょぼい感じで終わってしまうのである!ゆえに哲学徒たるもの、目標は限りなく高いところに持っておかねばならないのではないかと思われるのだ。
 
 
 もちろん、実現しなかったら意味ないわけだから、「全知になる」とか「知者になる」とかは持っても仕方のない目標ではあろう(cf.古代哲学の教えによれば、知者であるのはひとえに「神のみである」)。しかしだ、全国一、あるいはさらに進んで、歴史に残る大哲学者になるくらいの目標は、いちサムライとして、持っていてしかるべきものなのではなかろうか。しかし、こう書いてると正体不明の不安に襲われてくるあたり、筆者自身のうじうじ心性はおそらく、根治不可能なのであろうなあ……。
 
 
 
アガトン キリング・フィールド ショーペンハウアー ドゥルージアン 思弁的実在論 完全無双 潜勢状態 誇大妄想
 
 
 
 哲学の世界とは一面において、問答無用のキリング・フィールドである。学びの足りない者はただ、強者によって斬られるのみ。その強者もまた、その者の力量が足りなければいずれ、さらなる猛者によって斬られるのみ……。
 
 
 この冷酷無比なサバイバルを生き残るのはただ、「本物の哲学者という野生の人食い人種」(ショーペンハウアー)になるしかないのである。生兵法のドゥルージアンの残骸を食い散らし、調子に乗っている思弁的実在論者を頭から踊り食いするくらいに発狂した未確認生物でないならば、哲学史に残るなどと軽々しく口にすべきではないのかもしれぬ。
 
 
 善き師とは何かという問いを問いはじめるにあたってまずこのことを確認しておきたかったのは、問いを問う前に、大いに己に喝を入れておかねばならないと思ったからである。われわれには覚悟があるか。然り。われわれには、歴戦の猛者どもが倒れ伏す血の海の中を、ただ一人で歩んでゆく覚悟があるのか。同志よ、大いに然りである。
 
 
 一方、善き師とはあくまでも「善き」師であり、暴力や攻撃性とはあくまでも無縁であろう。しかし、だからと言って師が、真理をめぐる闘争の世界では生き残ってゆくことのできないひよっ子ちゃんであるというわけではあるまい。師は、イケイケのモルクス・マブリエル(仮名)を泣いて土下座させるほどの実力を備えている。師はただ、それを実際に行いはせず、あくまでも謙遜という徳の実践のうちにとどまるというだけなのである(潜勢状態としての完全無双)。
 
 
 ちなみに、筆者自身はどうかといえば、書いてる時には調子に乗って空でも飛べるんではないかと本気で疑うほどの誇大妄想狂ではあるが、現実においてはあくまでも弱気一本を貫く筋金入りのうじうじ侍である。ともあれ、この論点はかなり重要なのではないかと思われるので、もう少し掘り下げてから探求を先に進めることとしたい。