イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

師に力能は必要か

 
 問い:
 善き師であるためには、力能も必要なのか?
 
 
 筆者自身の哲学を題材にとって、この問いについて考えてみることにしたい。
 
 
 筆者の哲学においては、存在と力能という概念対が非常に重要な位置を占めている。この概念対を通して言いたいことは超簡単に突き詰めて言うならば、「人間、最後のところでは、何もできなくても存在しているだけでいいんではないのか」という問題提起に帰着する。力能ゼロの「存在のみ」の次元を見据えつつ、この次元を生きる人間が純粋愛を、すなわち、無条件的に与えられる絶対的な愛を要請せざるをえないモメントに注意を向けたいというのが、筆者がこの概念対を用いて物事を考えようとしている背景にある(興味をお持ちの方は、たとえば『社会やめますか』という連作記事を参照していただければ幸いである)。
 
 
 要するに、人間って自分の無能とかどうしようもなさに叩きのめされて、「うおおなんで僕って生きてるんだよちくしょう」と絶望の叫びを上げたくなる時もあるはずで、それでも生きてくしかないんだうおおぉ、だけどマジで何にもできないしもう死にたいよしくしくみたいな状況の時に、その状況について本気で考え、それでも生きてゆくための手がかりとして、「存在」とか「力能」とかいったような術語を用いてゆきたいというわけなのである。
 
 
 筆者自身が三十代のはじめくらいに上のような状況を体験したことがきっかけになって、この問題についてはイヤというほど考えさせられたのである(2015年の終わりくらいからしばらくの間の時期のブログは、まさしく瀕死の人間がたどった破れかぶれの魂の遍歴の記録となっている)。その甲斐(?)あって、この辺りの事情については、筆者自信の見方は少なくとも自分的には揺るがないものとなったわけであるが、筆者としては、これからもさらに磨きをかけて、その見方を哲学的に見て説得力のあるものにしてゆきたいと考えているわけなのである。
 
 
 
存在と力能 善き師 純粋愛
 
 
 
 さて、自分の主張する論に説得力を持たせるためには、一体どのようにしたらよいのだろうか。筆者が哲学者として自分の論を提示してゆきたいのならば、その答えは、「とにかく哲学の研鑽を積み続ける」ということの他にはないであろう。
 
 
 いま話題にしている主題について言うならば、存在と力能という概念はそれぞれ、哲学の歴史の中ではどのように問題とされてきたのか。そこでの問題点はどこにあって、筆者の論はどのような点においてその欠落を埋めているのか。こうしたことを説得的に示すことができるのであれば、筆者の論は哲学的に見てもそれなりのものであると言えるであろう。
 
 
 それで、やっと本題に戻るとである。そういうことをやり遂げるためには、言うまでもなく、やり遂げようとする哲学者にもそれなりの力能が求められるのではないか。よりはっきりと言うならば、めちゃくちゃすごい哲学者になるとでもいうのでなければ、自分の言っていることに説得力を持たせるということも、叶わないのではないだろうか。
 
 
 かくして筆者も、力能なしの「存在のみ」の次元を擁護しようとしていたはずが、そのためには並々ならぬ哲学者としての力能が求められるというなんとも皮肉な事態に立ち至っていることに気づかされるわけである。ともあれ、「存在」という重要タームが早くも出てきてしまったので、この問題については、あくまでも問題を提起したということで満足することにしつつ、次にはこのタームを掘り下げる方向で探求を進めてみることとしたい。