イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学の根本問題

 
 論点:
 善き哲学の師は、存在という語に対する研ぎ澄まされた感覚を身につけていなければならないものと思われる。
 
 
 哲学をやっていない人であれば、「存在する」とか「ある」とかいった言葉を聞いたとしても、特に気にも留めないであろう。しかし、哲学者であるならばどうであるのか。この言葉を聞くたびに、それは俺への挑戦なのかと思わず身構えるくらいの用意があってもよいのではないのか……。
 
 
 具体例:
 「philoくん、philoくんは自分の人生には何にもないって言ってるけど、わたしがいるだけじゃダメなの……?☆」
 
 
 こう持ちかけられたとしたら、修行の足りないひよっ子ちゃんであれば「ぼぼぼ、僕もみどりちゃんのことだいしゅきだよぽえーん」とか何とかいった戯言を口走り、その後はセカイ系の幻想にはまり込むなり、みどりちゃんだいしゅき踊りを踊りまくるなりといった、哀れな末路を辿らずにはいないことであろう。しかし、哲学者であるならば、「いる」という言葉のうちに〈存在〉からの呼びかけを聞き取り、思索あるいは詩作の瞑想的雰囲気のうちに一気に導かれずにはいないはずなのである。
 
 
 思えば、二十世紀哲学はことごとく、存在の問題圏のうちで動いていたのではないか。ハイデッガー先生は言うに及ばず、レヴィナス先生の思索は存在の論理そのものへの挑戦という方向に収斂していったし、ドゥルーズ先生の思索も、実は存在の論理の裏面を問うという仕方で導かれていたのではなかったか(「存在」は「生成」について言われる、あるいは、〈差異〉こそが存在する)。古代から現代に至るまで、哲学は存在の問いをめぐって展開され続けてきたのではないかというのが、このブログの筆者が抱いている哲学観なのである。
 
 
 
ひよっ子 セカイ系 ハイデッガー レヴィナス ドゥルーズ 存在 差異 マイモニデス 質量の永遠性 形而上学
 
 
 
 哲学にとって存在の問いが重要であるという事実は、最初はよく分からないかもしれぬ。その問いへの目覚めは、学び続けてゆくうちに、そう言えばここでも、あそこでも「それ」が語られてるなあとぼんやり思うというくらいから始まるものなのかもしれぬ。
 
 
 しかし、学びと経験を重ねてゆくうちに、予感は確信へと変わってゆくはずである。これこそが、この問題こそが、哲学という営みの核心だ。「ある」という語こそが盗まれた手紙であり、すべての探求は、気づかれるにせよ気づかれないにせよ、この語のまわりを回るようにして行われている。
 
 
 師は、何かをゼロから創り出すのではない。創造するという言葉は人間の営みからはどこまでも隔絶したものであるということを、師は知っているのである(マイモニデスの、また、彼の思索を引き継いでいった中世の哲学者たちの、質量の永遠性という異端に対する闘いを想起せよ)。
 
 
 師はただ、そこにあるものを、たとえば庭の柏の木を指し示すだけなのだ。ただし、正確に言うならば、師がそこにある「もの」を指し示すのだと思ってはいけない。師が指し示すのはそこにある「もの」ではなく、そこにものが「ある」ということ、弟子が見ているのに気づかずにいるまさにそのことである。見よ。ただし、見えているものを見るのではなく、見えないものを、見えているものがあるということそのものを見るのである(弟子を形而上学の深淵に一瞬で落とし込む、決定的かつ取り消し不可能な師の一撃)。