イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『意味の論理学』を読みながら

 
 論点:
 善き師は彼あるいは彼女自身、善き師(たち)から学んだことがあるはずである。
 
 
これはまあ当たり前のことに属するのかもしれないが、それでも大切なことのはずである。師匠には、師匠を教えた別の師匠がいるはずなのだ。だからこそ、自分が誰の教えを受け継いでいるのかということには、常に敏感になっておく必要があるのではないかと思われるのである。
 
 
筆者自身の例でいえば、哲学者としての筆者はとにかく、ハイデッガーレヴィナスドゥルーズという三人の師の教えをしっかりと身につけておかなくてはなるまい。この三人のことだったら何を振られても大体正確なことが言えて、なおかつ師たちの教えに対する自分自身の見解も持っているというくらいにまでなれば、哲学者としてはまずまずの所まで来たと言えるのではあるまいか。
 
 
プロティノスは、自分ではマスター・オブ・マスターたるプラトンの哲学を忠実に奉じていると思いつつ、同時に後代からは新プラトン主義と呼ばれることになる一大体系を作り上げたものであった。地味な下積みは何よりも大事である。ただ祖師たちの教えに耳を傾け続け、彼らとの飽くなき対話の中で自分自身の思索を積み上げてゆくべきであろう。
 
 
筆者は最近では『差異と反復』に引き続いて、ドゥルーズ先生の『意味の論理学』を読み直しているところなのである。男女愛について、これほど深い洞察に貫かれて書かれた本はちょっと他にないのではなかろうか。ただし、21世紀を生きる後代の人間からすると、あまりにもマニアックかつディープな精神分析の知見を大いにフィーチャーしまくって書かれているので、特に後半の第27セリーから第32くらいまでの核心部は、初学者にとってはもはや何が書かれているのかすらわからんというくらいに意味不明であろうが……。
 
 
 
ハイデッガー レヴィナス ドゥルーズ プロティノス プラトン 新プラトン主義 差異と反復 意味の論理学 アンチ・オイディプス ガタリ スキゾフレニック
 
 
 
それはともかくとして、師の著作を読み込むことの大きな利点の一つは、「先人はここまで言っている」ということの線引きが自分の中で非常にはっきりするということではなかろうか。
 
 
今の例でいえば、『意味の論理学』をしっかりと読み込めば、少なくとも偉大なるドゥルーズ師が性愛について(1969年の時点で)何を言っていたのかはしっかりと把握できるわけである。それでも、性愛とは何かを自分が本当に知っているのかどうかは、究極的にはそれこそ誰にもわからないであろう。しかし、性愛について、現代哲学の代表的な賢者(少なくとも、同世代の中では完全に無双状態であった賢者)が何を言ってるかはわかったというだけでも、それは認識における小さくない進歩といえるのではなかろうか。
 
 
こう書いてると、「philoさんってそんなに性愛について知りたいのね、キャーヘンタイッ!」との黄色い声も上がるかもしれないのではあるが、筆者はあくまでも哲学者として、師が教えたことのすべてを忠実に学んでおきたいと願っているだけである(本当である)。しかし、当のドゥルーズ先生自身は、倒錯的変態についてクールに語った『意味の論理学』から真理の道をさらに大胆に突き進んで、スキゾフレニックな太陽肛門的変態について未曾有のスケールで語った超問題大作『アンチ・オイディプス』をガタリと共に書き上げているので、この後はそちらの読み込みに進むのが道というものかもしれぬ。