イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

レヴィナス師の言葉に聞く

 
 次の論点に進むこととしたい。
 
 
 論点:
 師の言葉は、弟子であるわたしの存在を超絶したところから語られる。
 
 
 ゆえに、善き師の言葉を聞くに際しては、聞くための心構えというものも必要になってくるだろう。たとえば、レヴィナス先生の代表作である『全体性と無限』の序文の、始めの部分にはこうある。
 
 
 師の言葉:
 聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。
 
 
 「いや、当たり前やん」「先生バカリズムのモノマネかなんかですか」等々の反応しか返せない者は、哲学徒としてはピヨピヨのひよっ子ちゃんであるとの判定を受けても仕方ないかもしれぬ。ここで語られているのは「精神の、真なるものへの開かれ ouverture de l’esprit sur le vrai」なのだ。つまりこの語句は、レヴィナス先生が現象学のスピリットを受け継いだ真のジェダイであることを、冒頭から告げるものにほかならないわけである。
 
 
 それにしても、「開かれている」というのはまことに美しい言葉である。ハイデッガー先生が教え子のアーレントに「常に〈理解〉に開かれていることだ」とアドバイスしているのも、これと同じことを言わんとしたものであろう。人間として賢いかどうかということは、本質的には何か特定の知識を知っているかどうかというよりも、相手の言葉や真理に対して偏ることなく開かれているかどうかで決まるのであろうなあ……。
 
 
 
レヴィナス 全体性と無限 バカリズム ひよっ子ちゃん 現象学 ジェダイ ハイデッガー アーレント 第二次世界大戦 ユダヤ人 コロナウイルス 戦争と平和 憲法 純粋哲学
 
 
 
 脱線ついでに、先ほどの文章の続きを見ておくこととしたい。
 
 
 師の言葉(続き):
 そうであるなら、聡明さは、戦争の可能性が永続することを見てとることにあるのではないか。
 
 
 第二次世界大戦を生き抜いた人(それもユダヤ人として!)の言葉であると思うと、それだけで非常に重みのある言葉だが、この『全体性と無限』という著作自身、戦争なるものと哲学の立場から徹底的に対決しようという意図のもとに書かれたものなのであった。
 
 
 いや、これって最近本当に、まったくその通りだなあと思うのである。たとえば、いま世界全体を苦しませているコロナウイルスの問題にしても、真に悩ましいのは経済危機とも絡んで、今後の世界秩序がどのように推移してゆくのかという問題でもある(目下のウイルスによる危機もすでに十分に、特に発展途上地域においては非常に深刻なものであることは、言うまでもないにしても)。「戦争と平和」って非常時の時にだけ問われてるんではなくて、実は危機であろうとなかろうと究極的には常にそれだけが問われてるのかもなあと、歴史を学べば学ぶほどにそう思わされるのである。
 
 
 思えばこのブログでも五年前には憲法の問題を通して、戦争と平和について考えたものであった。これからの筆者は基本的には純粋哲学の方向で書き続けてゆくことと思うが、レヴィナス先生の上の言葉を通して、哲学という営みにおいても、その根本においては「戦争か平和か」という二択こそが問われてもいるという事情を改めて思い起こさせられた次第なのである。ともあれ、もともとの話題からはすでにだいぶ逸れてしまったので、最初に挙げた論点については次回の記事でもう一度論じ直すこととしたい。