イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「我々の流儀」

 
 続けよう。ある人々に対して、その人々が求めているとは異なるものを求めても望みはない(前回の記事参照)のと同じように、そうした人々に、彼らが求めているのとは違うものを提示したとしても、それをストレートに受け入れてくれる可能性は少ないものと思われる。
 
 
 「えっと、それはつまり……。」
 
 
 たとえば、われわれ日本人は、「ほんと何やってもダメでごめんなさい的なダメおくん」というイメージを子供の頃から見まくって育ってきている。
 
 
 その典型はかの、のび太くんである。のび太くんはテストで毎回0点という驚異的なスコアを叩き出す強者で、なおかつスポーツもダメ、特技もほとんどない(但し、あやとりなどの一部の技能を除く)という、まさしく力能ほぼゼロの、カリスマ的なダメおくんなのである。
 
 
 しかし、『ドラえもん』という作品は、そのダメよダメダメダメ人間ののび太くんが、なぜか22世紀のハイパーテクノロジーの粋たるドラえもんに頼って、何もかも、全部どうにかなっちゃう(?)という、都合がいいといえばあまりにも都合がよすぎる、いわば究極の少年成長物語なのである。
 
 
 力能ゼロ、いやもうほんと何にもできなくてごめんなさいみたいなのび太くんが、困ったらドラえもんにどら焼きあげるくらいで悩みを全部丸投げできて、しかも最終的にはあのしずかちゃんと結婚できてしまうというのは、極めて日本的な展開としか言いようがない。まさしくのび太くんこそは、甘えの構造の帝国たるわが国を代表する甘えっ子ちゃん的ダメおくんのレジェンドであり、彼はわれら日本男児に対して「お前らも、この高みにまで来いよ」と不敵な挑戦を投げかけているように思えてならぬ……(筆者もまた、「philoくん、philoくんは何にもしないでただ哲学だけしてるだけでいいから、わたしのワンちゃんとして永久就職してくれないかな……?☆」との誘いかけを待ち続けて生きているのだが、どういうわけかまだ一向に来ておらぬ)。
 
 
 
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 さて、こういういわば逆説的な「男の中の男」たるのび太くんの大活躍を、自力による困難の乗り越えを何よりも重んじているマッチョなアメリカ人に見せたとしてみよう。そのアメリカ人ははたして、野比のび太という生き方を承認してくれるであろうか?
 
 
 「……いや、多分もう承認してくれるかどうかっていうよりも、全然意味わかんないんじゃないですか。」
 
 
 その通りだ。おそらくは、「おいphilo、なぜあのノビタとかいう少年は自分では何もしないで、ただあの青いロボに頼ってばっかりなんだ?ヤツはタマなしか?」みたいな反応が返ってくることは間違いないであろう。そして、僕も「兄弟、これが日本の男の生き様だ。文化の違いってやつを受け入れることだ」といった、修羅場をしこたまくぐり抜けてるタフな男にしかできない返答ができるはずもなかろうから、「いや、あの、うふふ」みたいな、なんかよくわかんない曖昧な笑い(これこそが、日本人の最大にして唯一の武器である)でその場をごまかす他はないであろう。ともあれ、われら日本人が心から愛してやまないのび太くん的な生き方が、自力救済をよしとするアメリカ人たちの間で拍手喝采をもって受け入れられるということは、そう簡単には期待できないことは確かなのではないかと思われるのである。(つづく)