イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

何はなくとも求め続ける

 
 さて、本題に戻ろう。今度は、哲学者が求めるものについて考えてみたい。今さらではあるが、哲学者たちが全力をかけて探し求めているものとは、何であろうか?
 
 
「……それはもちろん、真理とか、何かそういうものなんじゃないですか。」
 
 
その通りである。この現代で「真理」とかそういう表現を使うとなんかうさんくさげな感じになってしまう恐れもなくはないが、他に呼び名もないわけだから、どうにも仕方なさそうである。
 
 
真理である。というわけでさらに掘り下げたいのであるが、真理とは、安全や、快適さではないね?
 
 
「……え、どういうことですか?」
 
 
いや、文字通りそのままの意味であるよ。それがどういうものであるかはまだ論じていないとはいえ、真理とはあくまでも真理であって、安全とか快適さとは違うものだね。真理を知ったら人生はより安全で快適なものになるということはありうるとしても、少なくとも真理と安全や快適さとは別のものだね。
 
 
「……まあ、そりゃそうなんじゃないですか。」
 
 
安全と快適さとは、言うまでもなく、非常に重要なものである。というか、ある程度の安全が確保されていないとそもそも哲学もできないだろうし、いくら哲学が楽しいといっても、毎日炎天下で汗を流しまくりながら哲学しなくてはならないとしたら、さすがにちょっとイヤである(ていうか、なんでまだ5月なのに、気温が三十度近いんだ……?)。しかしとにかく、哲学が全身全霊をかけて追い求めなければならないのは真理なのであって、少なくとも第一義的には安全や快適さではないということは確かなようである。
 
 
 
 哲学者 真理 純粋理性批判 ブログ
 
 
 
さて、もう少し続けたいのだが、真理とはまた、刺激や面白さとも違うものだね。
 
 
「……違いますね。」
 
 
僕は個人的には、この世には哲学ほどに面白いものはなかろうと思っているのだが、哲学の話を聞かされているあいだの人々の目は、どういうわけか、一様に死んでいる。そして確かに、世の中に『純粋理性批判』ほどに真理を言い当てている本もなかなかないであろうが、この本ほどにすさまじい眠気を催させる本も他にないと主張する人の数も、恐らくは少なくないのではないかと思われる。
 
 
たとえば、このブログも哲学の真理を追い求めているからには、内容が刺激的じゃなくてもまあしょうがないわけである。ていうか、今回の記事とかも自分で書いてて思うけど、別に面白いわけではないのである、ごめん。ただ、次に持ってくる議論のためにはいちおう先に詰めとかないといかんということなのではあるが、しかしとにかく、哲学の文章がある程度のつまらなくなってしまうというのは、事柄の必然性からしてもある程度は仕方ないのではないかと思われる。
 
 
まあしかし、面白いというのも大事ではあるが、哲学者としてそれよりも大事なのは、それが真理かどうかということのはずである。しかし、つまんなすぎたら真理がどうとかいう以前に、そもそも誰にも読んでもらえない、あるいは話を聞いてもらえないという事情のうちにこそ歴代の哲学者たちの、知られざる苦闘があるのであろうなあ……。ともあれ、たとえ超絶つまらないとしても、とにかく真理だけは求めねばならぬということで、とりあえずは議論を先に進めることとしたい。