イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

非本来性と本来性

 
 さて、必要な前置きを終えたので、あらためて「大多数の人々」なるものについて考えてみたい。この問題について考える上で重要なのは、いわゆる「大多数の人々」なるものが、それ自体で常に存在しているというわけではなく、むしろすべての人が、ある時には本来的な実存として行為し、また別の時にはまさにその「大多数の人々」として振舞ってもいるということである。
 
 
 「……と言いますと?」
 
 
 たとえばだ、いかに勉学に熱心な哲学徒であろうと、確かにミシェル・フーコーを読んでる時には規律権力と生政治について考え抜いている思索者以外の何物でもないであろうが、橋本環奈ちゃんのCMが目の前で流れているその時には、彼の脳内宇宙においてはもはや橋本環奈ちゃん以外の何物も存在していないであろう(但し、筆者のようなガチガチの堅物を除く)。
 
 
 また、休日の自宅でゴロンとしている時のお父さんは「もうパパったら、まるでトドみたい!」と娘の西野七瀬ちゃんも思わずあきれ顔になるほどのグータラっぷりを見せているかもしれぬが、職場でのお父さんはどうからどう見ても、仕事に本気のできる男でしかない、等々。つまり、ある人が特定の状況下ではまさしく「大多数の人々」の一員として振舞っているとしても、その同じ人が、別の状況下では真剣かつ本気な「真の人間」として本来的な実存を遂行しているということは、十分にありうることである。
 
 
 
ミシェル・フーコー 生政治 橋本環奈 西野七瀬 マルチチュード ハイデッガー オルテガ 現存在
 
 
 
 哲学というのは往々にして、一方では「世人」とか「大衆」みたいにして、いわゆる「大多数の人々」をディスってきたり、あるいは例の「マルチチュード」の概念みたいに、その「大多数の人々」の行動のうちに何か革命的なものの萌芽を見ようと努めたりもしてきたけれど、哲学、あるいは哲学者と「大多数の人々」の関係って、そんなに簡単に語り尽くせるものでもないんじゃないかというのが、今回の記事で言いたいことなのである。
 
 
 いや、ハイデッガーとかオルテガとかの思索もそんなに単純なものでもなかろうから、ひょっとしたら筆者がここで言っていることも、少なくとも部分的にはいちゃもんということになってしまうのかもしれぬが(例えばハイデッガーにおいても、世人は「現存在がさしあたりそれであるところのもの」として規定されているのであって、一方に本来的実存を生きる現存在が、他方にそうでない現存在が別々に存在しているというわけではない)、哲学の欲望のうちに、「本来的な実存を生きている人間」と「大多数の人々」とを判然と区別したいというある種のエリート意識のようなものがあることは、恐らくは否定しがたいであろう。
 
 
 それって、言うまでもなく幾分かは十分に根拠のあることでもあって、他のあらゆる真剣な営みに打ち込んでいる人間と同じように、頑張って何ごとかを思索しぬいている時の人間には、何かとても気高いものがあることも確かである。その意味では、「君たちは、世の大多数の人々と同じであってはならない」という苛烈なメッセージを生徒に全力で突きつけることのできる教師だけが、真の教師であると言えるのかもしれぬ。
 
 
 しかし、話が大変に混線してて申し訳ないのではあるが、どれだけ努力しぬいたとしても自分の中の「大多数の人々」が消えるわけではないというのも、哲学的には非常に重要なのではないかと思うのである。語り方に関して非常に気をつけなければならない話題ではあるが、この点に関しては次回以降にもう少し掘り下げてみることにしたい。