イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

高貴とは何だろうか

 
 この話題については、やはりすべての哲学徒に馴染みのものであるあの言葉を、引かねばなるまい。
 
 
 先人の言葉:
 確かに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。
 
 
 筆者はいわゆるスピノザ主義の哲学に全面的に共感するわけではないので、こういう時だけスピノザを引用するのもいかがなものかという気がしなくもないが、しかしやはり、この言葉が不朽の価値を持っていることだけは間違いなさそうである。多分、そう言ったとしても、哲学の道を歩んでいる人々にはかなりの割合で同意してもらえるのではなかろうか。
 
 
 さて、高貴さである。もちろん、哲学徒も人間であるから、たとえば齋藤飛鳥ちゃんかわいいなうふふとか、いやもう拙者にはもう山下美月ちゃんがたまらんでござるよもへもへもへへとか、そういう残念な状態に陥っている時もあるかもしれぬ。いや何も、僕は自分がそうだって言っているんじゃない。僕はただ、そういう人も中にはいるかもしれないっていう例を挙げているだけだってことを分かってくれるね。
 
 
 「……はあ。」
 
 
 とにかくだ。仮にそういうことが、あるいは他に色んなことがあるにしてもだ、根本のところでは、われら哲学徒はどこまでも高いものを目指さねばならんのではないか。高貴であるとは、人間として高いところにいるというよりも、むしろ罪と弱さを抱え持った一人の人間として、それでも本当に高いと言わざるをえないようなものに向かって歩み続けるところに表れてくる、ある種の気高さのことを言うのではなかろうか。そして、このものは現代という時代が大衆の時代であろうとなかろうと、哲学徒が変わらずに追い求め続けるべきものなのではないかと、僕は思うのである。
 
 
 
スピノザ 高貴 齋藤飛鳥 山本美月 大衆 神 スピノザ
 
 
 
 おそらくはどんなに偉大な人間であっても、残念な部分がない人などいないのではないだろうか。「完全であるのはただ、ひとり神のみである。」しかしそれで、歴史上には、そして世の中には尊敬すべき人々というものが、確かに存在している。
 
 
 そして、この点についてはスピノザも言う通り、高貴なものとはたぶん、いつの時代にも非常に稀なものなのであるが、稀であるということは、たとえ少ないとしてもゼロではないということでもある。うおお、ギリギリでこの人に出会えてよかった、つうかこの人に出会ってなかったらほんとどうなってたかわからんよ、いやーマジで危ないとこだった、いやでも待てこの人よく知り合ってみたらかなり残念だな、ていうかこの人のこういうとこって人としてどうなの全然ダメじゃんと思いつつも、何年も経った後に思い返してみたら、いや、やっぱりあの時の俺が間違っていた、色々あったけど、あの人はやっぱりまぎれもない俺の先生だったということも、稀にではあるが起こりうるのだ。
 
 
 どんな人間関係も時が経つとともにすり減ってゆき、お互いに対して幻滅するということは必ず起こる。それでも、永遠に残るべきものは、たとえ何があったとしてもその後まで残らずにはいないのである。親友と恋人と善き師に出会わせてもらえるというのは、人生の恵みの中でも最も大きなものの一つであろう。