改めて、「大多数の人々」について考えてみたい。もちろんその際、すでに見たように、われわれの誰もが少なくとも何らかの側面においてはまさにその「大多数の人々」であること(5月19日付記事参照)は忘れないようにしつつ、である。
「……了解です。」
さて、「大多数の人々」の求めているものとは、何だろうか。それは思うに、たとえば、安全とか快適さといったものではないだろうか。
「……そういうのも、あるでしょうね。」
またはいわゆるエンターテインメントの要素、つまりは、刺激とか面白さのようなものも求めているのではないだろうか。どうだろう?
「……求めていますね。」
あるいはまた、「大多数の人々」の求めているものとは、家族愛とかそういったものかもしれない。言うまでもなく、ここで挙げたようなものはすべて、生きてゆく上で欠くべからざるもの、あるいは魅力あるものであることは間違いないけれども、いま大切なのは、これらのものは皆、真理と全く関係のないものというわけではなくとも、少なくとも真理そのものとは別のものであるということだ。そうではないか。
「……ですね。」
ならば、ある人々に対して、その人々が求めているのとは異なるものを求めても望みは薄いことはすでに確認されているのであるから(5月11日付記事参照)、哲学の真理をいわゆる「大多数の人々」のところに求めるのは、彼らに対して、いわば見当違いなものを求めにゆくことになってしまうのではないか。それとも君には、何か別の考えがありそうだろうか。
「……いえ、そう思います。」
さらに、それに加えて、ある人々に対しては、彼らが求めているものとは違うものを提示したとしても、それが受け入れられる見込みは小さいこともすでに確認されたのであるから(5月13日付記事参照)、たとえ哲学の真理なるものが見出されたとして、それを「大多数の人々」に提示したとしても、それを受け入れてもらうことは期待できそうにないね。なぜならそれは、いわばマッチョな気質を持つアメリカ人のタフガイに対して、のび太くんの生き方を承認してもらうように求めるようなものであるがゆえに。この点については、何か異論の余地はありそうだろうか。
「……いえ、ないんじゃないですか。」
うむ。それでは長かったが、これまで問答してきたことから、以下のような結論が導かれることになりそうである。
問答からの帰結:
哲学の真理は、たとえそれが見出されることがあるとしても、「大多数の人々」によって受け入れられることはないであろう。
注意しておきたいのは、この「受け入れられることはない」というのはまずもって、何らかの能力の欠如によるものではなく、求めているものが異なることによってそうなるという点である。
「大多数の人々」、あるいはわれわれ自身の一人一人の中に存在している「大衆的なるもの」は、真理とは別のものを求めている。だからこそ彼らは(あるいは、われわれ自身の中の「それ」は)、別に求めているわけではない真理を血眼になって探そうとはしないし、それを示されたとしても受け入れないのである。それはある意味では当たり前のことで、知ったからといって安全さや快適さに直結するわけでもなく、しかも、わかりやすく面白いわけでもないものを求めるというのは、言ってみれば相当な物好きのすることではあるだろう。そうではないか?
「……そりゃ、そうでしょうね。」(つづく)