イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

命題の真理

 
 探求の出発点:
 真理とは、命題の真理のことを言うのであろうか。
 
 
 たとえば、次のような命題を取り上げてみる。
 
 
 命題:
 ソクラテスは人間である。
 
 
 この命題は、真であると言われる。なぜならば、歴史上実在したあのソクラテスなる人物は、言うまでもなく人間であったからである。同様に、「2020年6月3日の最高気温は35度であった」は偽であると言われるが、それはこれまた言うまでもなく、いくら異常気象が続いていてグレタちゃんが大活躍しているからといっても、さすがにこの季節に気温が35度を超えることは実際にもなかったからである(どうか、これからもそんな時が来ないことを願うばかりである)。
 
 
 このように、命題なるものは世界について何ごとかを語り、そしてそれが命題である限り、世界の実情に即して真あるいは偽とされる(このことは、「真理値」が割り当てられると表現されることもある)。そして、こうしたことがとりあえず、真理という言葉に関して、哲学者なら何はともあれどこかで触れないわけにはゆかない話題であろう。
 
 
 真とか偽という言葉は一般には使われていないけれど、語られている命題が真か偽かという問いは、人間存在の最大の関心事の一つであることは言うまでもない。たとえば、「『マトリックス4』が来年公開される」という命題が真であるとすれば、筆者の世代の人間としてはその多く(?)が平静でいられようはずもないし(ていうか、あのエンディングから一体どうやって続編を作るというのか現時点では謎でしかないが、公開されたら見ねばならぬことだけは間違いない)、あるいは、空の雲行きがあやしい日には、「今日は雨が降る」が真であるか偽であるかは万人の気になるところであらざるをえない、等々である。
 
 
 
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 真理とはまず、命題なるものが世界について何事かを語るという事実に関わっている。このことはとりあえず疑いなさそうであるが、この「命題の真理」としての真理観だけで真理なるものについて納得するという哲学徒は、ほとんど皆無に近いのではないかと思われる。
 
 
 なぜと言って、哲学徒としても中二病なり知的情熱なり、人生の真理を見出したいとする高邁な意志なり、はたまたいかんともしがたい虚無感なり、兎にも角にも、こじらせまくった挙句の名状しがたい何ものかを抱えて哲学の世界にたどり着いたわけである。そこで聞かされる説明が「真理という言葉は、命題が真理を語るということです以上」みたいな無味乾燥なもので尽きているとしたら、哲学徒としては、底の底まで絶望するか、あるいは責任者出せとでも叫びまくりながらわめき立てるかの二択しかないのではないかと思われるのである。
 
 
 真理とは「ソクラテスは人間である」が真か偽かとか、どうかそういう話だけで終わらないでほしいというのは、多くの哲学徒たちの魂の叫びなのではなかろうか。もし仮にこれだけで真理の問題にすべての片が付くということであれば、その時には、若き日のウィトゲンシュタインがかつてしたように、哲学をやめてしまって後は終わりまで非−哲学人生を送るという考えも一概には否定しさることができなくなってしまうのかもしれぬ。筆者はとりあえず、そのような見解を取るものではないが、この点は論点として重要でなくもないと思われるので、次回にまた改めて取り上げてみることとしたい。