イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ニヒリズムは、今日……。

 
 論点:
 人間が世界について語りうることは、自然科学の知だけに尽きてしまうのだろうか。
 
 
 ウィトゲンシュタインが生きていた時代、二十世紀前半のヨーロッパは、根底的なリアリティ喪失とでも呼ぶべき精神的危機に直面していた。
 
  
 このことはたとえば、「ヨーロッパ諸学の危機」や「ニヒリズム」といった言葉が、彼の同時代人たちによって極めて真剣に受け止められていたという一事実からも窺える。人間は、自分が生きていることの意味も、世界が存在するということの意味さえも分からなくなっていた。現代を生きていると我々からするとちょっと想像しがたいところがあるが、リアリティは、それほどまでに根底的な混迷と崩壊の過程のただ中にあったのである。
 
 
 ウィトゲンシュタインの『論考』がある種の古典的価値を持っているのは、そこで主張されていることが、単なる一青年の思想の表白という枠を超えて、当時の人間性そのものが被らざるをえなかった危機の証言となっているからである。そして、この危機は、今のこの時代を生きている私たち自身もまた、目立たない仕方ではあれ向き合わされ続けている危機であるといえるのではないか。
 
 
 世界は、知であふれている。制御の技術と情報理論の融合は、この世のあらゆる領域を覆い尽くすようにして不可逆的な発展の過程を今日も進行させつつある。しかし、この過程が進めば進むほどに、生きることの意味は、密やかな仕方で深いところから押しつぶされていってもいるのではないか。
 
 
 
ウィトゲンシュタイン ニヒリズム 論考 サイバネティクス 先進国
 
 
 
 「サイバネティクス」や「ニヒリズム」という言葉が用いられなくなったのは、そうしたものがもはや消滅したからではない。事態はその全く逆なのであって、今の世界にはある意味でサイバネティクスしか、あるいはニヒリズムしか存在しなくなってしまったからこそ、こうした言葉をわざわざ用いて問題を提起することも行われなくなってしまったのではないだろうか。事柄の発端を経験した人たちの方が迫ってきた事態に驚愕し、その本質を的確に表現していたということは、このことに限らず非常によくあることのように思われる(非哲学的精神は、驚きの不在によって特徴づけられるであろう)。
 
 
 「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない」と、ウィトゲンシュタインは1918年に書いていた。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」は、今では一種の強迫的な禁止の不文律のようなものとなって、私たち自身が生きているこの世界を密かに蝕んでいる。人間は、人間であること自体に倦み疲れている。そして、この倦怠、この危機なきことの危機の本質はおそらく、真理を「真なる命題の集合」のうちに閉じ込めるという、私たちがすでに見たような哲学的立場に、とても深いところで通じているのではないだろうか。
 
 
 ニヒリズムという問題はそれを測ることのできる客観的な基準が存在するわけではないので、万人に説得的な仕方で語るということは、原理的に言って難しい。
 
 
 とりわけ、今日の先進国で実現されている、情報技術の爆発的な発展と一体になった集団的熱狂の地獄(今や地球規模のものとなった〈帝国〉の市民である私たちは、世界の再魔術化の尖端を担う新たな「パンとサーカス」の奔流に飲み込まれながら、人間性を貶め続けている)の中で、思想の問いを提起すること自体もまた、絶望的なほどまでに難しくなっているという事情はある。しかし、思想を語ることが難しくなっているという事実は、哲学をすることが不可能であるということを意味するわけではない。筆者自身について言うならば、最近ではますます、あらゆる思想の喧騒から離れたところで淡々と哲学をし続けるというのが、自分に与えられた運命であるように思われるのである(おそらく、事実においても可能性においてもいわゆる「思想」の世界から少なくとも一旦は切り離されるというのは、哲学者が本当の意味で哲学者になるために、必須の条件であろう)。