イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「素晴らしき新世界 Brave New World」

 
 問い:
 人間の語りうる真理として、命題の真理以外のものはありうるのか。
 
 
 もしもこの問いへの答えが「否」であるとすれば、その時には「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」が絶対的な掟となって、人間が行う「真理の探求」としては、自然科学と、それに範をとった心理学や統計的な社会学のような「実証的な人文学」のみが可能であるということになるのかもしれない。それほとんど『華氏451度』が提示するような世界であるが、哲学気質を持った未来の若者たちが、こういう世界の中では次々に病んで倒れてゆくであろうことは容易に想像できる。
 
 
 いや、今でもそういう若者たちは次々に病んで倒れていってるわけだから、状況はあんまり変わらんではないかというツッコミもありうるかもしれないとはいえ、今はまだウィトゲンシュタイン哲学とかラカン精神分析とかレヴィナス先生とか、病めるものたちにとってのカリスマとも言える人たちが遺した金字塔へのアクセスが許されてるからまだどうにかなってるわけで、これすらも禁じられてしまうとなれば、人々が惨状に陥ることは必至である。人文学をめぐる状況は、ゆっくり、じっくりと事態が進行しているためにそれほど目立つことはないとはいえ、ウィトゲンシュタインが『論考』を書いた1918年の頃よりも確実に華氏451度化していることだけは間違いないであろう。
 
 
 
真理 華氏451度 ウィトゲンシュタイン レヴィナス 論考 人文知 オルダス・ハックスリー ニコライ・ベルジャーエフ ユートピア 新世界
 
 
 
 こうした「人文知の黄昏」が、世界がこのまま「素晴らしき新世界Brave New World」に向かって突き進んでゆく兆候であるのどうかはまだ不透明な部分があるとはいえ、人類の歴史を長いスパンで考えつつ、決して楽観視はしない方がいいのではないかという気がせずにはいられないのである。20世紀を代表するSF小説を書いたオルダス・ハックスリーは、自作の冒頭部にニコライ・ベルジャーエフの次のような言葉を掲げている。少し長いけれども、非常に啓発的であるゆえにここに引用しておく。
 
 
 「ユートピアは、かつてそう信じられていたよりもはるかに、その実現可能性が高まっているように思える。われわれはいま、新たな警戒すべき問題に直面している。すなわち、ユートピアの最終的な実現をいかにして防ぐか?……ユートピアは実現可能である。生活は、ユートピアに向かって進行している。そしておそらく、新しい世紀が始まるだろう。知識階級や教養人たちが、なんとかしてユートピアを避け、それほど’’完璧’’ではなくもっと自由な非ユートピア的社会に立ち戻ろうとして、その方策を夢見る世紀が。」
 
 
 ここで展開している議論に引きつけて言うならば、命題の真理以外には何も語られなくなってしまう悪夢の「新世界」が、もう少し時間はかかるかもしれないとはいえ、いつの日か到来してしまう可能性は否定できないのである。それはともかくとして、哲学徒としては、最初に掲げた問いへの答えは「然り」であってくれなくては困るわけである。
 
 
 改めて考えてみるならば、「否」と言い切ったウィトゲンシュタインも確かに「否」とは言ってるわけだけど、あれはほぼ間違いなく、「あなたって実在の人物っていうよりも、もはやマンガかアニメのキャラかなんかですか」っていうくらいにこじらせた挙句の中二病の極限から発された否定なのではないかと思われる。そもそも躊躇なく「否」って答える人だったら最初から哲学なんてやってないわけで、ウィトゲンシュタインの例は「哲学徒の中には、『否』と答える人もいる」ことを証明しているというよりは、「哲学徒の中には、『否』と断言して『論考』書いて岩波に残しちゃうくらいにこじらせてる猛者もいる」ことを証明しているといった方が事態を正確に表現していると言えそうである。
 
 
 そういうわけで、次回からはこの悪夢の「新世界」の可能性をどこかで念頭に置きつつ、これまでとは違う方向性から真理の問題にアプローチしてみることにしたい。命題の真理、そしてこの「新世界」の問題にはまた後で戻ってくる予定であるが、上に挙げたベルジャーエフの「ユートピアの到来を何とかして防がねばならない」という語り口は、ブラックユーモアと本物の叡智とが絶妙なブレンドで混じり合っていて、古典的であるとはいえ、何とも味わい深いものであるなあ……。