イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

バラが部屋に届いたら

 
 論点:
 美を鑑賞するためには、日常的態度からの態度転換が必要である。
 
 
 これは前回の論点とも関連することだが、すでに美の本質についても何事かを教えてくれるものなのではなかろうか。
 
 
 前回すでに名前を挙げたけれど、たとえば最近の筆者はとある事情から、ジェイソン・ステイサム主演の映画を見まくっている。要するに、ステイサムが撃ちまくったり、爆破しまくったりする映像をかなりの頻度で見続けているわけである(名作『ロック・ストック・アンド・トゥー・スモーキング・バレルズ』に出てた頃には、まさかこんなスターになるとは思わなかった)。これはこれでめちゃくちゃ面白いんだけど、こういうステイサムものを見続けているだけだと、美とは何かという問いからは遠ざかってしまう危険がないとは言えぬであろう。
 
 
 つまり、「面白い」とか「おいしい」とか、あとは「楽しい」とか、そういう性質の物とか体験はわりと日常生活の中にもふんだんにあるし、また、熱心に追い求められてもいる。その一方で、「美しい」の方は少し敷居が高いというか、何か高級な感じがするというのはまごうかたなき事実である。
 
 
 人間は、美しいものがなくても一応フツーにやっていくことはできるわけである。けれども、美しいものが身の回りから一切なくなってしまったとすれば、その時には私たちの人生から、何かが足りなくなってしまうのではないか。美しいものは、私たちがたまに味わう一種の贅沢に、あれば心地よいといった嗜好品にすぎないのだろうか。
 
 
 
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 「生きることは、バラで飾られねばならない。」國分功一郎氏が『暇と退屈の倫理学』の冒頭部でも引いている、ウィリアム・モリスの言葉である。この言葉自体が非常に美しいもので、ああ、人生っていいな、やっぱりこうでなくてはいけないなと思わされるという意味では、こんなにいい言葉はなかなかないのではないかと思う。
 
 
 美しいものって、日常世界の中に入り込んでくる日常的ではないもののことを言うのではなかろうか。ああ、自分の人生ってなんで何にもないんだろうとか、俺とあの子の関係って、結局何だったんだろうみたいな時に、ふと道で咲いている花を見かけたり、思いもかけないほどに美しい思い出が蘇ってきたりする。その時ひとは、ああ、美しいなあとか、俺とあの子は結局駄目になっちゃったけど、でもあの子はほんとに優しくしてくれたこともあった、ああ、夏の太陽の下で見たあの子はほんとにきれいだったなあとか、思うわけである。
 
 
 大学もやめてしまったし、筆者の人生にはこれからも、華々しいことはそんなに起こらなそうである(いつの日か哲学でぶちかますという野望だけは、どうしても捨てられそうにないが)。それでも、筆者の人生という部屋には他の人たちの部屋と同様、ときどき、嘘みたいに美しい花束が届けられたりする。思わず宛先が間違ってるんじゃないかと考えたりもするけど、それぞれの人間の人生には、その人が思いも及ばないくらいにきれいな花束が用意されているもののかもしれない。繰り返しにはなってしまうけれど、ウィリアム・モリスはほんとにいい言葉を残したなあと思わずにはいられないのである。