イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

誕生日のケンタくん

 
 考察を進めてゆくにあたって、しばらくは、巨人の肩に乗らせてもらうこととしたい。
 
 
 美に関するカントのテーゼ:
 関心を呼び起こすことなしに気に入るものが美しい。
 
 
 ここ数百年のうちで美について語られた哲学の名著の中でもずば抜けたものの一つとしては言うまでもなく、『判断力批判』が挙げられるだろう。というか、数あるものの中の一つというよりも、まさしく「この一冊」とも言いうるようなマスターピースであると主張したとしても、哲学者の中であまり反論する人はいないのではないかと思う(但し、この本の叙述は限りなく無味乾燥な外観を呈してはいるが)。ここでは、筆者の関心に合わせてカントの主張をパラフレーズさせていただく形になるので、いささかこの偉大すぎる先人に礼を失することになるのではないかと恐れるが、以下、筆者なりに上のテーゼについて論じてみることとしたい。
 
 
 上のテーゼが主張していることって簡単に言ってしまうならば、「美しいものって、とりあえずは実用性とか道徳性から離れたものであると言えそうである」、ということである。まずは、実用性の方から話を進めよう。
 
 
 たとえば、家の中に花を飾るのって、まあ綺麗だから飾るわけだけど、花って別に何か実用性があるというわけではない。木材なんかは色んな道具に使えるわけで、いまノートに書きつけているこのブログなんかも、マツを加工した木材(「パイン材」というらしい)で作られた机の上で書いている(そして、書いたものを一日後に、その同じ机の上でiPadで打っている)わけだけど、花ってそういう風に使われるというわけではないのである。
 
 
 花は、ただ見られるために飾られる。美しいから飾られる。美とは実用性ではなく享受であり、道具的存在者というよりは事物的存在者であり、東急ハンズというよりは国立西洋美術館なわけである。
 
 
 
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 この点、「飾る」という言葉のうちには、あらためて考えてみると、実は非常に深いものがあると言えるのかもしれぬ。
 
 
 論点:
 人間は、飾るという行為を行う存在である。
 
 
 たとえば、ケンタくんが5歳になったその日には、友達を呼んでみんなで誕生日パーティーをするということもありうるわけであるが、その会場(本人の家か、あるいは近所の集会場かは想像にお任せする)は恐らく、色つき折り紙で作ったちっちゃな輪っかとかで飾られてるわけである。
 
 
 ケンタくんはまだ5歳だし、何と言っても頭からっぽの男の子である(その時期の男児を見よ。彼らと動物とを隔てる差異は、まだほんの僅かなものにすぎない)からして、自分の誕生日パーティーの会場が飾られているという事実に改めて思いをいたすような余地があろうはずもなく、ただおかしうめぇとか、昨日買ってもらったゲームソフトやりたいぜうおおぉとか、そういう事でもう頭が一杯なわけである。ちっちゃい輪っかを準備した当のお母さんも、おそらくはそんなに深いことは考えずに、「ケンタはこんなの作っても気づかないだろうなあ」とか思いながら、準備に追われるようにして急いで作ったというだけなのかもしれぬ。
 
 
 でも、ケンタくんがそれからずっと時が経って青年になり、青年がいつの間にかもういい大人になって、色々こじらせた挙句に結局は冴えない哲学者になって、ああもう人生失敗しちゃったかもなあ母さんごめんよ、たまにはプレゼントでも買って帰らなきゃなあとか思ってる時に、ふとあのちっちゃな輪っかのことを思い出して、ああそうか、あれは俺の誕生日を祝うために作ってくれてたんだな、人間って、そうやって子供が生まれてきたことを祝うんだなあすばらしいなあ、俺も今はこんなんになっちゃったけど、本当に色々してもらったなぁ母さんありがとう、結局期待には全然応えられなかったけど、俺は母さんの子供でよかったよ色々ごめんとか思いながら、ひとり部屋で泣きまくったりするわけである。彼の場合、そんなに泣いてる暇があったら少しは親孝行でもした方がいいのではないかという気がしなくもないのではあるが、それはともかくとして、飾るという営みはそれ自体、まことに美しいものであるなあと、哲学者としてはそう思わずにはいられないのである。