イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

真正な遊戯

 
 さて、本題の方に戻ることとしたい。
 
 
 美に関するカントのテーゼその2:
 美における快は、構想力と悟性の自由な戯れから生じる。
 
 
 「戯れ」とは要するに、「遊び」ということである。これから上のテーゼをじっくりと掘り下げてみることとしたいのだが、カントはつまるところ、美の本質が遊びにあると言っているわけである。
 
 
 遊びにも、われわれがすでに何度も論じてきた自己目的性という性格が刻まれている。つまりひとは、遊ぶために遊ぶ。ひとがゲームをやるのはまずもってそれが面白いからであって、何か他のものに役立つからではない。
 
 
 余談ではあるが、筆者はここ数年、ビデオゲームにしろそうでないゲームにしろ、もうゲームなるものにはほとんど興味が持てなくなってしまったのである。たぶん同じくらいの年齢の人々のうちには、同じような感慨を抱いている人が結構いるのではないかと思うが……。
 
 
 これって、他に面白いものが見つかったというのも大きくて、哲学の対話というのはとにかくめちゃくちゃに面白いのである。学問的な話、たとえばトマス・アクィナスにおける創造論とその哲学史的背景とかそういうのでもいいし、「遊びとは何か」みたいな、ゼロから組み上げてゆく方式でもいい。とにかく、哲学の話をするというのは至上の喜びである。
 
 
 ところが普通の場合には「遊びとは何か」と問うよりも、実際に遊ぶことの方が求められるものである。筆者も一般的なものの見方からすれば、どんどんつまらない人間になっていっているのではないかと恐れる。しかし、この変化もこれから逆向きには進んでゆかないであろうから、哲学の精神を愛する少数の人々と時を忘れて語り合いながら、世の片隅でこっそりと生きてゆきたいもの……。
 
 
 
戯れ 遊び ゲーム トマス・アクィナス 哲学 ZAZENBOYS YouTube ベートーベン 第九
 
 
 
 それはともかくとして、本題に戻る。「自由な戯れ」である。自由な戯れとは要するに、遊びへと生成した感覚ということである(感覚以外のものについては、次回以降に論ずることとしたい)。
 
 
 絵画とは、色と形の遊びである。また音楽とは、音の遊びである。アートとは、まことにその本質からして遊びであるなあということを体感する上では、たとえばZAZEN BOYSの『DARUMA』とかはお勧めである。興味をお持ちの奇特な方は、YouTubeなどで検索されたい(この路線でいうと、『NABE&SADA』とかは上記の「遊び」の感覚にそこはかとないセンチメンタル感が加えられていて、特に後半の展開がすばらしい。あっさりした仕上がりなのに、なんとも味わい深い一曲である)。
 
 
 遊びといっても他のあらゆる遊びと同じように、極めようとすればお気楽な要素はたちまちに吹き飛んでゆく。芸術については「遊び」というよりも、むしろ「真正な遊戯」とか、そういう言葉を用いた方が、その本質を言い表す上では適当と言えるのかもしれない。
 
 
 たとえば、ベートーベンも「真正な遊戯」くらいの表現であればあるいは頷いてくれるかもしれぬが、生半可な調子で「音楽って結局遊びっすよねぇ〜」とか言おうものなら、ガチ切れは決して免れえぬであろう。真正な遊戯というイデーを胸に抱きながら『第九』の第二楽章を聴くならば、「真正」という言葉の本義も余すところなく了解されようというものだが、ベートーベンの遊びとなると、雷鳴も轟き、火山も火を吹き、世界の歴史は激震するということにならざるをえないのかもしれぬ……。