イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

子どもは遊ぶことを好む

美の本質を掘り下げるためには、遊びという行為の本質を掘り下げてみる必要がありそうである。
 
 
論点:
子どもと若者は、遊ぶことを好む。
 
 
この論点は観察可能な経験的事実として異論の余地がなさそうであるが、ここでは冗談というものを例にとって考えてみることにしたい。
 
 
冗談とはいわば、言葉による遊びである。そして、若者が冗談や軽口を言うことをこよなく好むというのもまた、普遍的な事実であろう。
 
 
ところで、哲学というのはある意味では、冗談とは正反対の営みである。哲学は、たとえ面白くなかろうとも真実を言い当てることを目指すわけで、カント先生の本なんかは、人間理性についての真理を過不足なく学的かつ正確に表現しようという不断の努力が注ぎ込まれた結果、常人にとっては、もはやヘドバンさせようとしているのかというくらいの眠気を引き起こすことが必死な叙述になっているわけである。
 
 
正しいことというのはティーンエイジャーにとってはつまらない、というかもっと言えば、つまらないを越えて、イヤでたまらないわけである。学校教育というのはもちろん色々と問題もあるではあろうが、一応は真理を教えているわけで、たとえば歴史の授業なんかは人類、あるいは日本人が経験したまぎれもない事実を学んでいるわけだから、学んでおいて損があるはずもないものと思われる。しかし、現実の子どもたちの反応は、「つまんない」「モンストの方がおもしれえ」「オレ歴史なんて勉強しても意味ないと思うんだけど」等々である。学校教育を批判する意見には無条件で賛嘆の声が上がり、擁護しようとする意見には、容赦のないブーイングが浴びせられることになる。世の終わりである。
 
 
 
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……と、大人の立場から一方的に意見を述べ立てるのも、ある意味では非常に公正を欠く行為であることは確かで、かくいう筆者もまた、中学生の時には文字通りカードゲームとプレステにしか興味を持っていなかった。これって多分、多かれ少なかれ誰でもそうなのであって、最近では、そういうことになるのも、事物の本性からして避けがたくそうなるのであろうなあとも思うのである。
 
 
子供が遊ぶことが好きなのは、それが今の彼らにとって必要だからそうなのである。今は遊んでしかいない子どもも、おそらくは大人になればこちらがビビるくらいに真面目な大人になることもあるであろうし、今は冗談しか言っていない若者が、将来立派な哲学者になることもあるかもしれない。
 
 
彼ら自身は単に面白いから遊んでるだけと言うことであろうが、彼らのうちで働いている〈自然〉の方は、彼らよりも狡知に長けている。子供時代によく遊んでおくことは彼らにとって、〈自然〉が準備した教育の一部をなしているのだ。ともあれ、だからと言って定期テストの勉強をする必要性がなくなるわけではないということを一応は確認しつつ、遊びについてさらに掘り下げて考えてみることにしたい。