イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

遊戯の効用

 
 論点:
 遊戯は、人間を現実上の拘束から解放しつつ自由な活動状態のうちに置くことによって、人間の諸能力を開発し、育成する。
 
 
 上の論点はすでにイマヌエル・カントによって指摘されているものではあるが、ここでは筆者なりのしかたで問題を整理してみることにしたい。それにしても、いつもの事にはなってしまうが、先人の功績というのはまことに偉大なものであるなぁ……。
 
 
 たとえば、ビデオゲームをプレイするにしても、反射能力、対戦相手の心理を読む能力、戦略を組み立てる力、仲間との協調性、コミュニケーション能力など、多様な能力をフル回転させることが求められる。また、いま論じていることとの関連でいえば、RPGで映像と音楽も楽しみながらプレイしているという場合には、視覚と聴覚から一種の「美的快楽」を引き出すという感性的にして知的な作業をも、同時に行っているわけである。
 
 
 遊びは、遊びの楽しみ以外には現実の成果を生まない。というか、生んでしまうのであれば、それはもう純粋な意味での遊びではないわけである。
 
 
 しかし、そのぶん遊びは、現実の諸活動が要求しているよりもはるかに多様な諸能力を、多様な仕方でフル回転させることができる。遊びが人間に引き起こす状態とは、言ってみればまさにある種のリズム天国なのである。ストレスもなく、労苦もなく(あるいは、労苦があくまでも楽しみを感じることのできる範囲に抑えられつつ)、ただ楽しみに従って自由に能力を行使することができる。子どもたちが遊びを好むのも、この点からすれば何の不思議もないと言えるであろう。
 
 
 
イマヌエル・カント ビデオゲーム 力能
 
 
 
 子どもや若者は、世間に出てゆく前に、自分自身の能力を十分に開発していなければならない。無意識的であるにせよそうでないにせよ、このような事情からして社会は、彼らが社会人として働く前に遊びまくることを許しているのかもしれない。
 
 
ついでに言うと、子どもの生意気さ、もっと言えば傲慢さという、古今東西を問わず普遍的に観察される特質も、上で見たような観点から考えてみると理解しやすくなるのではないかと思われる。
 
 
 子どもたちは遊びまくることによって、ゲームやコンテンツと出会う以上に、実は自分自身の能力にはじめて出会っている。いわば彼らは、力能フル回転状態の自分自身をたえず新しく発見し続けてゆく過程のただ中にあるわけであって、彼らがある種の全能感を感じながら調子に乗りまくるとしても、ある程度までは無理もないというものかもしれない。ただし、子どもの中にはこの生意気さを茶目っ気に変えて、調子に乗りつつこちらを楽しませてくれる技に巧みな者たちもいるので、そういう時には大人たちも、賛嘆の情を抱かずにはいられないものである。
 
 
 とにかく、遊びというものが能力の開発に深く関わっているという点については、以上で説明が果たされたのではないかと思われる。われわれとしては、ここからさらなる考察を加えつつ、美の本質とは何かというそもそもの問いの解明に役立てることとしたい。