イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

芸術が燃え尽きたとき

 
 論点:
 前世紀の芸術は、一面においては、「美とは快をもたらすものである」という定式に対して挑戦を投げかけていたと言えるのではないか。
 
 
 「美とは快をもたらすものである」は、トマスやカントにおいても踏襲されていた、いわば美に関する伝統的なテーゼであるともいえそうである。ここで筆者が言いたいのは、二十世紀の芸術はこのテーゼに対して、それを反駁するのではないにしても、非常に重要な疑義を申し立てるものであったのではないかということである。
 
 
 ここでは、サミュエル・ベケットの文学とフランシス・ベーコンの絵画を例に挙げるにとどめたいが、このことは、彼らの作品だけに限ったことではない。二十世紀の芸術家たちの多くは、根深いところで「心地よいものとしての芸術」というイデーに反旗を翻していたように思われるといっても、それほど反論は出ないであろう。
 
 
 もちろん、彼ら芸術家たちの作品の中に、喜びの要素が全く見られないというわけではない。その意味では、ただ単に快いものに背を向け、伝統や慣習を無化することだけを目指していた数多くの作品たちは、その本質において失敗していたのだろう。
 
 
 けれども、彼らの作品のうちに刻み込まれていた喜びは、ほとんど息切れとも見分けのつかないような、疲労と精進の果てにわずかに垣間見られるような何ものかであったように思われる。ベケットが書きつけた、正体不明の誰かによって延々と続けられる呟きに耳を傾けるとき、また、ベーコンが絶対的な沈黙のうちに炸裂させるインノケンティウス10世の絶叫に向き合わされるとき、私たちが、ほとんど芸術の終わりと呼ばずにはいられないような瞬間に立ち会っているということは確かだ。
 
 
 
サミュエル・ベケット フランシス・ベーコン インノケンティウス10世 芸術 ギリシア ローマ 黙示録
 
 
 
 二十世紀とは、芸術と呼ばれていた営みが少なくとも一度はその極限にまで達してしまった、黙示録的といえばまことに黙示録的な時代だったのである。芸術という理念自体が、今ではほとんどその意味を失ってしまったかのようである。二十一世紀を生きている私たちは、その瓦礫と残骸の存在を忘れ去るようにして、享楽と消費の大海に飲み込まれつつある(ギリシアの終焉とローマの繁栄という歴史の運行が、こうして形を変えてふたたび繰り返されている)。
 
 
 ここでは、前世紀の芸術の企てを、存在するものに向かおうとする、飽くなき接近と消尽の企てであったと考えてみたいのである。その企てが歴史の許容しうる一線を踏み越え、文化を文化として保つ最後の臨界点を越えてしまったとき、芸術という営みも一度は燃え尽きることになったのではないだろうか。その後のこと、つまり「芸術の今日」という呪われた問題について考えてみることも、必要といえば必要なのかもしれないとはいえ、筆者としてはそうするよりも、以上のことから美の本質についての考察をさらに今一歩進めてみることとしたい。